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全責任は拙者にござる!戊辰戦争に敗れて切腹した新選組隊長・森常吉が守り抜いたものとは?

全責任は拙者にござる!戊辰戦争に敗れて切腹した新選組隊長・森常吉が守り抜いたものとは?

全責任は拙者にござる!腹を切って桑名藩を守り抜く

「えっ、殿が切腹に!?」

……実は松平定敬は4月に箱館を脱出しており、従者と共に横浜経由で上海へ渡航したまでは良かったのですが、旅費が底を尽いたために国外逃亡を断念してとんぼ返り、5月18日に降伏していたのです。

この時点でまだ無事でしたが、新政府軍は特に幕府への忠義が篤かった桑名藩を「会津藩に並ぶ朝敵」として激しく敵視しており、このままでは切腹が現実となってしまいます。

ここで現代的な感覚だと「何だよ、みんなまだ戦っていたのに逃亡して、おカネがなくなったからおめおめと戻って来たのかよ。ダセェ」などと思ってしまうかも知れませんが、常吉は違いました。

「今こそ、主君のお役に立てる『命の使いどころ』である!」

投獄されていた常吉は、新政府軍に対して「藩主・松平定敬をはじめ、桑名藩における全ての責任は拙者にござる」と申し出ます。賊軍となった諸藩では多くの者が責任逃れに終始していた中、その立派な態度は忠臣の鑑として高く評価されたようです。

新政府軍の中には「桑名藩憎し」、ことに「家臣を見捨てて逃げ出した松平定敬を生かしておくべきではない」という声も強くありましたが、最終的には「ここは忠義の心映えをこそ尊重すべき」として、常吉は旧桑名藩邸で切腹を申し付けられたのでした。

「なかなかに おしき命に ありなから 君のためには なにいとふへき」
【意訳】なかなか惜しい命ではあるが、主君の為とあれば何も厭うことはない

「うれしさよ つくす心の あらはれて 君にかはれる 死出の旅立」
【意訳】忠義の心が認められ、主君の代わりに死ねるとは、奉公人冥利に尽きるではないか

明治二1869年11月13日、常吉は二首の辞世を遺し、44歳の生涯に幕を閉じたのですが、その甲斐あって、旧主・松平定敬は明治五1872年1月6日に赦免。明治四十一1908年に61歳の天寿をまっとうできたのでした。

エピローグ

常吉の死によって桑名藩は救われましたが、戊辰戦争の全責任を負った森家は取り潰しとなってしまいます。しかし、長男の三木太郎(みきたろう)は若月(わかつき)と苗字を改め、その子孫は令和の今も存続しているそうです。

命に代えて大切な者を守り通した常吉の忠義……その覚悟と心映えは、明治維新によって多くの日本人から失われてしまった武士の精神を、末永く伝えていくことでしょう。

※参考文献:
水谷憲二『戊辰戦争と「朝敵」藩―敗者の維新史』八木書店、2011年4月
好川之範・近江幸雄 編『箱館戦争銘々伝 下』新人物往来社、2007年7月
好川之範『箱館戦争全史』新人物往来社、2009年1月

 

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