フィクションだった一夜城!秀吉が築く前から墨俣には城が存在していた:3ページ目
墨俣一夜城の新証拠?『武功夜話』を巡る論争
これで墨俣一夜城がフィクションとして決着したかと思いきや、歳月は流れて昭和三十四1959年、「墨俣一夜城の新たな証拠」として『武功夜話(ぶこうやわ。前野家文書)』なる古文書が「発見」されました。
そこには秀吉が墨俣に一夜城を築いたという「事実」をはじめ、城郭の間取り図や素材に至るまで詳細に記載されていると言います。
しかし、斬新すぎる(現代人でも容易に読める)言葉づかいや表現方法(例えば、地中に埋めた杭の断面図や進軍方向を示す矢印など)、更には戦国乱世にあるまじき危機意識の低さ(軍事機密を子細洩らさず敵に奪われるリスクもある手紙に書いてしまう)などあまりにもツッコミどころが多く、専門家の間では真偽をめぐって論争が絶えません。
※信憑性を持たせようとするあまり、当事者であれば言わなくても(書かなくても)分かることまで事細かに書いてしまったことが、完全に裏目となっています。
中でも、本題の墨俣城については「まさかのサボタージュか!?」とさえ思わせる設計図面となっており、とても戦国武将が御家の命運を賭けて築こうとしたとは思えない欠陥が素人目にも見つかります。
1) 近くに大きな川が流れているのに、それを天然の堀として利用せず、あえて四方に土塁と堀を設けているため、工事に時間も費用もかかる上、防御力に劣る。
⇒斎藤方の妨害を受けないよう、一刻も早く建てなくちゃいけない筈では?2) その割に大手口(おおてぐち。正門)や搦手口(からめてぐち。裏門)と言った城門の構造が単純かつ手薄。
⇒土塁や塀を乗り越えるよりは突破しやすく、戦闘が集中しがちな場所なのに?3)城郭が外壁のみの単層構成で、一度突破されたら中央まで一直線。
⇒せめて本丸部分(上の図なら、屋敷&櫓)を守る内郭(うちぐるわ。複層の防壁)を設けるべきでは?
左は突入を図る者(槍兵)に対して全員が援護(射撃)しやすい一方、守備側はBとCしか矢を射かけられず(距離にもよるが)、一度城門を突破されれば奥深くまで突入されてしまう。
それを右のように改良すると、突入するホ.に対してイ.とロ.のみしか援護(射撃)できない一方、守備側はA~Cが矢を射かけることが可能となる。たとえ城門を突破されても、一度90度方向を変えなければならないため、勢いを若干でも殺ぐ効果が見込める。
……等々、実に非経済的かつ非効率的、そして城塞としては致命的となる非実戦的な欠陥の多い構造となっていますが、唯一の美点を挙げるとするなら「お城としての見栄えがいい」と言ったところでしょうか。
四方に巡らされた城壁と堀、堂々と正面を向いた城門……まぁ、天守閣は流石に嘘っぽいので、城内にはそれっぽく施設を散りばめて……そんな図面を墨と筆でサラサラ描けば、戦国時代の「新発見」が一丁上がり。
そんな史料が一部の歴史学者や文化人たちによって無批判に賞賛され、メディアの影響力も手伝って、あれよあれよと市民権を獲得。気づけば大河ドラマや時代劇など、秀吉を語る上で欠かせないエピソードとして定着していったのでした。
終わりに
かくして幻であったことが分かった墨俣一夜城ですが、個人的にはあまり「騙された!」というネガティブな感情は湧いてきません。
一夜で城を築き上げる奇策が実際に行われたことはなくても、それを思いついた人間がいることは間違いなく、その奇想天外なアイディアこそが歴史物語に触れる者の胸を沸かせてきたのです。
あの秀吉だったら、このくらいの事はやってのけてもおかしくない……そんなある種の期待感もまた、歴史物語の醍醐味と言えるでしょう。
もちろん、歴史的事実とフィクションはきちんと分けて理解した方がいいものの、フィクションはフィクションとして楽しめるくらいの余裕はあった方が、歴史物語からより多くの学びや感性の刺激を得られることでしょう。
(※あくまで素人としての立場で言っていることを補足しておきます)
※参考文献:
鈴木眞哉『戦国時代の大誤解』PHP新書、2007年5月
藤本正行・鈴木眞哉『偽書『武功夜話』の研究』洋泉社、2014年3月