フィクションだった一夜城!秀吉が築く前から墨俣には城が存在していた:2ページ目
秀吉が築く前から存在していた墨俣城
冒頭、秀吉が墨俣に一夜城を築いたのは永禄九1566年と紹介しました。
しかし信長の側近・太田牛一(おおた ぎゅういち)がほぼリアルタイムで信長の生涯を記した『信長公記(しんちょうこうき)』によると、その5年前の永禄四1561年時点で洲俣(すのまた。墨俣)に砦を構えており、そこを足がかりとして斎藤方と交戦しています。
つまり、秀吉が築くまでもなく、墨俣にはとっくに砦があったのです。ちなみにこの砦は後に放棄されていますが、それが5年後になって「あの砦、やっぱり必要だったわ。誰か建て直して?」などと言いだすような信長ではないでしょう。
(もしそうであれば、織田家中の誰かが間違いなく愚痴の一つもこぼし、それが『信長公記』などに残っていそうなものです)
だったら最初からそこを死守させていたでしょうし、そこまでする価値がないと判断したからこそ放棄したと考えるのが妥当です。
明治時代に登場した新説
それでは「秀吉が永禄九1566年に墨俣一夜城を築いた」という言説がどこから来たかと言うと、明治時代の学者・渡辺世祐(わたなべ よすけ)が、以下に紹介する様々な書物を混ぜ合わせたものです。
太田牛一『信長公記』
⇒墨俣城砦は永禄四1561年に信長が築いた。小瀬甫庵『信長記(しんちょうき。甫庵信長記)』慶長十六1611年ごろ
⇒墨俣城は永禄五1562年に信長が築いた。小瀬甫庵『太閤記(たいこうき)』寛永三1626年
⇒永禄九1566年9月、信長が美濃国の某所に城を築き、秀吉に預けた。遠山信春『総見記(そうけんき。織田軍記)』貞享二1685年ごろ
⇒墨俣城砦は永禄五1562年5月に信長が築き、秀吉に任せた。武内確斎(作)&岡田玉山(画)『絵本太閤記(えほんたいこうき)』寛政九1797年
⇒墨俣城砦は永禄五1562年、秀吉が奇策をもって築いた(他の者たちは失敗している)。
※『信長記』は『信長公記』を元に書かれており、一年のズレは恐らく小瀬甫庵の写し間違いと考えられます。
時代を追うに連れて墨俣と秀吉を結びついていったようすがうかがわれますが、「秀吉が墨俣城砦を築いた」とする説?は江戸時代後半の『絵本太閤記』が初出であり、そこへ小瀬甫庵の『太閤記』から永禄九1566年9月という日時を引っ張ってきたのが渡辺氏ということになります。