身代わり伝説は本当か?今も眠る源義経の首級と胴体の「謎」を紹介【下】:2ページ目
御家人みんなが「義経公」の首級に涙……その理由は?
また、鎌倉幕府の公式記録である『吾妻鏡(あづまかがみ)』の記述にも不可解な点があります。
義経公が自害したのは文治五1189年閏4月30日、その首級が鎌倉・腰越に届けられたのは同年6月13日……いくら平泉が遠いと言っても、鎌倉までの道のりに1ヶ月以上もかかるのは、いくら何でも遅すぎです。
現代の太陽暦で言えばおよそ6~8月という暑い盛りでもあり、これではいくら酒(アルコール)に漬けて保存を図ったとは言え、鎌倉に着くころには首級も腐敗してボロボロになってしまうでしょう(まして当時の酒は、現代ほどアルコール純度が高くありませんでした)。
首実検に臨んだ和田義盛(わだの よしもり)や梶原景時(かじわらの かげとき)らは悪臭に顔を顰(しか)めながら、見る影もなくなった「義経公」の首級を検分したことでしょう。
「うむ……これは確かに九郎御曹司(くろうおんぞうし。義経公)の首級に相違あるまい」
「左様々々。もはやこれ以上の検分は無用、かかる逆賊の首級など疾(と)く打ち捨てよ」
……『吾妻鏡』ではこの様子を
「観る者みな涙を拭(ぬぐ)ひ、両衫(りょうさん)を湿(うる)ほす」
【意訳】義経公の首級を見た者は全員、涙を拭う袖の上着に留まらず、中の衫(さん。肌着)が湿るほど泣いた
としており、これは「平素さんざん憎んだ義経公でも、いざ亡くなってみるとその偉業が惜しまれたため」と解釈されがちですが、実際は「あまりの腐臭が目に染みて、涙が止まらなかった」だけという可能性もあります。
※義経公は戦上手、軍略の天才と称えられた一方で「マナー違反の卑怯な手段で勝っただけ」「みんなの手柄を独り占めしようとした」「頼朝公の弟であることを鼻にかける言動が目立った」など、御家人の間ではあまり評判がよくなかったそうです。
しかし頼朝公は内心「弟(義経公)を逃がしたい=生かしておきたいけど(義経公が御家人たちから憎まれていることもあるし)立場上そうは言えない」ことから身代わりを立てさせ、ただでさえ似ているその首級を判別できなくさせ、「死んだこと」にしたかったのかも知れません。