差別や偏見と闘い日米親善・世界平和に奔走した人生!笠井重治はかく語りき【後編】:2ページ目
そして迎えた、昭和二十1945年8月15日の敗戦。日本人の多くが絶望感に打ちひしがれる中、重治は日本の未来を諦めませんでした。
「天皇陛下だけは、どうしてもお守りしなくては!」
中世の大航海時代よりこのかた、西欧列強は有色人種国家を力づくで滅ぼし、その指導者たちを惨たらしく処刑することで見せしめとしてきました。
このままでは、天皇陛下が危ない。もしアメリカが天皇陛下を処刑してしまったら、仇討ちに燃える日本人が戦闘を再開、日本人が殺し尽くされるまで泥沼の戦いが続くでしょう。
当時、多くの日本人は圧倒的な武力差を持つアメリカや連合国軍に対し、なおも抵抗の意志を示していました。
それを制してポツダム宣言を受諾し、日本人に武器を捨てさせたのが、他ならぬ天皇陛下です。もし仮に天皇陛下が「抗戦継続」を命じれば、多くの日本人が喜び勇んで再び武器をとったでしょう。
「……もう二度と、日本を戦場にしてはならない!」
そのためには、何としてでも連合国軍最高司令官であるダグラス・マッカーサーに対して天皇陛下の重要性を訴えなければなりません。
当時の日本はアメリカの軍政下におかれており、マッカーサー率いるGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)に逆らえば、殺されるかも知れない中、重治は文字通り命懸けで訴えました。
この時、重治のみならず多くの心ある者たちが天皇陛下の助命嘆願に奔走し、またマッカーサー自身も天皇陛下の高潔なお人柄に心打たれ、その処刑を求めるアメリカ当局の声を退けたとも言われます。
天皇陛下の御無事を確信した時、重治は人生における最大の仕事を成し遂げた思いがしたことでしょう。
常に世界の平和を祈り続けて来られた天皇陛下と日本人の絆は、重治や先人たちのお陰で、今日も脈々と受け継がれています。