差別や偏見と闘い日米親善・世界平和に奔走した人生!笠井重治はかく語りき【後編】:3ページ目
エピローグ・その後の重治
天皇陛下が助かった後も、重治はGHQの軍人たちに対して日本に善政を求めるべく積極的に交流し、昭和二十一1946年には衆議院選挙で当選して国政にも復帰(残念ながら翌年落選、政界引退)。
昭和二十二1947年に日米文化振興会(現:日米平和・文化交流協会)を創立してその会長に就任、昭和二十五年にはGHQによるアメリカ渡航許可第1号として渡米し、ワシントン大学や母校のシカゴ大学、そして全米在郷軍人会などで精力的に講演し、日米連携にむけた理解促進に努めました。
他にもフィリピンを訪問したり、日豪(オーストラリア)親善に尽力したり、太平洋せましと駆け巡る日々を送ります。
そんな重治でしたが、昭和六十1985年4月10日、東京都世田谷区松原の自宅で98年9ヶ月の人生に幕を下ろしました。
葬儀は自宅で行われ、元首相の福田赳夫(ふくだ たけお)やマンスフィールド駐日アメリカ大使らが参列。今も都内の多磨霊園に眠っています。
ここまで笠井重治の人生を駆け足で辿って来ましたが、最後に重治の人柄を感じられる妻・とも子のエピソードを紹介したいと思います。
晩年、病床に臥している重治の看病に疲れたとも子が、甥っ子にこんなことを話したそうです。
「私は医学を学んで医者にはなったけれど、あまり他人様の面倒を見てあげることができませんでした。でも、私は今こうして先生(=重治)の看病ができて、本当によかったと思います。むしろ、先生を看病するために医者になったとさえ思います。今まで家庭を顧みず世界平和のために奔走してきた先生と、最期こうして一緒にいられるなら、この結婚生活に何の悔いもありません」
きっと、寂しいことも多かったでしょう。悲しい時、心細い時、いつもずっと独りで長い年月を耐え抜くことができた彼女のよりどころは、世界という大舞台で是(ぜ)と信じた大義のため、命懸けで働く重治のひたむきな信念だったのかも知れません。
誰もが互いの違いを認め、尊重し合える世界にはほど遠い現状ですが、かつて重治が甲州の山々の向こうに抱いた青雲の志を、誇り高く受け継ぐ日本人でありたいものです。
※参考文献:
笠井盛男編『笠井重治追悼録』昭和六十二1987年4月
笠井重治『笠井家哀悼録』昭和十1935年11月
七尾和晃『天皇を救った男 笠井重治』東洋経済新報社、平成三十2018年12月