実際に山姥を斬った刀剣!?「山姥切国広」は持ち主よりも刀の方が有名になっちゃった戦国時代の一振!:2ページ目
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山姥切国広とは
顕長が所有していた山姥切国広は実は山姥切長義の写しです。作者は日向国(現在の宮崎県)で伊東氏に仕えていた堀川国広です。
国広は伊東氏が滅亡すると諸国放浪を行い、天正18年(1590)の2月に顕長の命を受け山姥切国広を鍛刀します。
山姥切長義自体は天正14年(1586)に顕長が氏直から貰ったものであり、国広は山姥切長義を実用的にするために短く鍛え直していることと並行して山姥切国広を打ったと考えられています。
山姥切の号の由来
山姥切の号の由来は諸説あり、1つは山姥切長義の写しだから山姥切国広と名付けたとする説です。
もう1つは実際に山姥を斬ったとする説です。
これを詳細に説明すると小田原征伐後に後北条の遺臣の石原甚五左衛門が信州の地に行く途中で妻が産気づきます。
そこであばら屋の老婆に妻を任せて甚五左衛門が薬を求めてあばら屋を後にし、戻ってくると老婆が産み落とした赤ん坊を食べていました。
これに怒った甚五左衛門は持っていた山姥切国広で老婆を斬りつけました。そのような話があったので山姥切とついたとする説もあります。
実際に山姥を斬って山姥切国広と名がついた方が正直浪漫があると思ってしまいますね。
最後に
刀には名前がついた由来と作者と所有者の想いが宿っていると思います。そして、名刀ほど多くの方から認知されていくので刀で当時の人々がどんな想いで鍛刀したのかを思い浮かべるのも風情があっていいですね。
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