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かつて日本ではマイナーだったスキーの発祥とスキーの宣伝に尽力した「磯野霊山」その1

かつて日本ではマイナーだったスキーの発祥とスキーの宣伝に尽力した「磯野霊山」その1:2ページ目

子どもたちは、かすりの着物や股引きにわら靴履きのものや簡素な竹の自家製スキーなどで滑っていましたが、堀内連隊長の命令で高田の大工が初めて日本製のスキーを作ると、やがて工場で大量生産されるようになりはじめました。

その生産技術向上のため、スキー用具の開発は、新潟県工業技術センターの上越試験場が中心となって進められ、今日の高田のスキー技術の名声の礎となっています。

日本のスキーの主流が、一本杖のスキーから二本杖に変わったのは大正7(1918)、同8(1919)年頃といわれています。大正10(1921)年には一本杖スキーはほとんど見られなくなり、日本杖スキーが主流になっていったそうです。

現在、金谷山頂には、スキー発祥記念館碑のほか、ひげ姿で一本杖のレルヒ少佐の銅像が建てられています。そして、毎年冬になると、スキー客で賑わい、「スキー祭り」も盛大に行われています。

上越市高田で生まれた「スキー唄」第一号

スキー発祥の地であった新潟県上越市高田でスキーの歌が最初に高田から生まれたのも歴史的に必然かもしれません。ところがその「スキー唄」第一号を知る人はほとんどいません。

歌詞の作者は「磯野霊山(いそのれいざん)」。

その2に続く

参考:長岡忠一 「日本近代スキーの発祥と展開―長岡外史とレルヒの役割を中心として」

 

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