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江戸時代の蘭学者・高野長英の逃亡を助けた越後の和算家・小林百哺(1)

江戸時代の蘭学者・高野長英の逃亡を助けた越後の和算家・小林百哺(1)

和算家・小林百哺を頼って直江津に

追われる長英が直江津に来た理由、それは越後の和算家・小林百哺を頼ってのことでした。

小林百哺は、文化元(1804)年の生まれで、長英と同い年。現上越市の小猿屋村の篠宮家に生まれ、直江津の床屋・小林藤八の弟子になりました。

高良鷗憐の塾で和算を、府中八幡の渡辺月斎について経史を学び、天童の誉れが高く、文政九(1826)年、養女よのと結婚。23歳のときに上洛して小嶋トウ三や土御門家司天官安部晴親に、暦法、天文、易学、測量などを学んで皆伝を受け、土御門家専属の学者として自ら免状を出す格式を得ました。

6年後に帰郷して塾を開きました。その名声は天下に知れ渡り、百哺の名声を聞き、遠く信州上州から修学するものもあり、慶応元(1865)年の門人帳には5000人の名前が記されています。

福永七兵衛の元に身を寄せる長英

長英と百哺は学問によって親しい間柄でした。ところが、百哺のところは塾を開いていたため、人の出入りが多いうえに、長英は供の清吉まで連れてきたので隠す場所がありませんでした。仕方がなく当時大肝煎を務めていた福永七兵衛を頼みました。

七兵衛は本来、長英を召し取らなければならない立場の人物でしたが、学識の豊かな彼は長英に深く同情し、匿うことを了承しました。七兵衛は、廻船問屋で酒造業を兼ね、屋敷も数千坪もあり、長英らを隠匿するには最適でした。

こうして福永家では、長英が大好きだった酒も出し、お客のように歓待し、十二月半ばごろ、夜陰に乗じて小廻船で、路銀と食料を与えて二人を新潟付近まで送迎したのです。

その2はこちら。

江戸時代の蘭学者・高野長英の逃亡を助けた越後の和算家・小林百哺(2)

前回の記事はこちら。[insert_post id=93753]さて、無事に江戸に帰った長英ですが、嘉永3年(1850年)10月30日、とうとう江戸の青山百人町(現在の東京・南青山)に潜伏…

参考文献:図解 にいがた歴史散歩 上越

 

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