江戸時代、餓死者放置は当たり前!?人肉をも食べた恐ろしい飢饉の真実【その2】:2ページ目
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お救い米の支給で打ちこわし回避!
幕府や江戸の町会所は、米価高騰が始まった天保4年から天保8年にかけて年に数回、庶民に「お救い米」を支給したのです。
1度につき30万人以上の江戸庶民がこの「お救い米」を受け取りました。成人男性は米5合、女性や子供、老人は3合を1日分として計算し、10日分を支給したそうな。1日分5合って、今の人だったらお腹パンパンになりますよね・・・。
さて、問題はこの米、どっから集めたのっていう話です。天明の飢饉を教訓として、以降50年、幕府は頑張って上方から江戸に米を集めていたのです。そのおかげで江戸の庶民の被害は比較的小さく済んだものの・・・。
困ったのは米を江戸に持っていかれた大坂。天保8年、ついに事件が起きます。大坂町奉行で与力を務めた華麗なる経歴を持つ大塩平八郎が「救民」の幟を掲げて放棄し、豪商の家を襲ったのです。
これが日本史の教科書に出てくる「大塩平八郎の乱」です。乱はすぐに鎮圧されましたが、皮肉な話ですよね・・・。
明治以降
ちなみに飢饉ではありませんが、明治初期に日本を訪れた外国人グリフィスの手記によると日本には「乞食や餓死者が当たり前のように転がっている」といった描写があります。維新後も、飢えの問題は日本全体を覆っていたのです・・・。
参考文献:
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