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どちらの財政政策も理にかなっていた。江戸時代の田沼意次の財政政策と松平定信の寛政の改革

どちらの財政政策も理にかなっていた。江戸時代の田沼意次の財政政策と松平定信の寛政の改革:2ページ目

商品経済に財源を求めるように

田沼意次が政治の中心にいた時代、当時の社会経済は商人が徐々に資本(お金)を蓄積し力を持ちつつあった時代でした。いつの世でもお金のあるものに力やゆとりが生まれるのは必定。田沼意次は当然、当時富が集まる先だった商人の暮らしに目を付けたわけです。

それまで江戸時代の財源といえば農民から徴収する年貢(米)が中心でした。しかし田沼は財源の主な徴収元を年貢よりも発展しつつあった商品経済に財源を求めたのでした。

具体的には、特権的な株仲間と結託して、冥加金・運上金という間接税を徴収して幕府財政の増収を図ったわけです。田沼のこのように商人や商業に重きをおいた政策を≪重商主義≫なんていいます。

一方、この田沼の政策を「本末転倒である」と断罪したのが、寛政の改革を断行した松平定信です。彼は、商業より農業、カネよりコメ、道徳倫理の重視、外国貿易の縮小、鎖国の祖法化、蝦夷地の開発の中止などを行いました。

その一方で、定信は江戸町会所を設立し、今でいう福祉政策である「七分金積立」をスタートさせました。1791(寛政3)年、京・大阪についで江戸でも七分金積立による囲籾(かこいもみ)が始まりました。

江戸は食料を消費するだけの消費都市となっていたからこそ、飢饉などが起これば食糧問題が深刻化します。幕府は江戸の住民に「町人用の減額し、それをもとに飢饉・災害などの非常事態に備える囲籾と積金を行うのだ」と。

松平定信による寛政の改革は、とにかくお金を使わない、庶民にも使わせないという徹底した方針でした。そのような背景には、災害や凶作が続くといった社会背景があり、幕府は深刻な危機を抑えて内外の危機を打開する必要に迫られていたのです。

定信はこのような時代に対応するために、徹底して改革に取り組んだのでした。

3ページ目 厳しすぎる倹約は庶民の反感を買いやすいもの

 

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