鎌倉幕府滅亡のとき、なんと65回もの突撃を繰り返す激戦だった:2ページ目
洲崎での最期・忠臣らの殉死
65回の突撃によって押しに押しまくった守時らの軍勢は、そのまま化粧坂を攻めている新田本軍(大将・新田義貞ら)の背後を衝こうと進撃したものの、洲崎の陣出(現:鎌倉市寺分周辺)まで到達したところで衆寡敵せず力尽きてしまいます。
守時は「ここは一度、地の利がある巨福呂坂まで引き返し、態勢を立て直しましょう」という侍大将・南条高直らの進言を容れる事なく自刃。高直や守時の嫡男・益時ら90数名も殉死(後追い)しました。
ちなみに、守時らの自刃によって勢いを取り戻した新田軍は巨福呂坂まで攻め込みましたが、その天険ゆえに攻め落とせませんでした。
あの時、守時が巨福呂坂まで一時撤退していれば、鎌倉幕府の命運は少し変わっていたかも知れませんね。(結局、史料によって諸説あるものの、新田義貞は極楽寺坂or稲村ヶ崎から防衛線を突破、鎌倉へ乱入しました)
往時を今に伝える“泣塔”伝説
かくして鎌倉幕府は滅亡しましたが、その23年後となる南北朝時代の文和五(1356)年2月20日、陣出の丘に石造りの供養塔が建立、いつしか“泣塔(なきとう)”と呼ばれるようになりました。
その背後には鎌倉地方に特有の墓である“やぐら”が掘られ、地域住民が納めたであろう大小の五輪塔が現存しています。明記こそされていませんが、建立時期や立地から、洲崎の地で自刃した守時らをはじめとする幕府・新田両軍の戦死者の霊を供養するためのものと考えられています。
ところで“泣塔”という名前の由来ですが、戸部川(柏尾川)より吹きつける川風がやぐらに共鳴して鳴き声のように聞こえるためとか、一度近隣の青蓮寺(鎖大師)に移設したところ、夜な夜なすすり泣く声が聞こえるようになり、祟りを恐れて元に戻した等の伝承があります。
また、時代は下って昭和17(1942)年9月、この一帯が海軍工廠の用地として買収された時、泣塔の丘も壊してしまう予定でしたが、祟りを恐れる住民の要望や、工事中にたびたび起きた怪現象などにより、泣塔周辺だけはそのまま保存され、現代に至ります。
終わりに
現在、この洲崎一帯は32ヘクタールの広大な空き地となっており、鎌倉市による再開発が計画されています。しかし、その中でも泣塔の周囲だけは手をつけず、そのままに保存される方針です。
これを「祟りのせいで、開発から取り残されてしまう」と見ることも出来ますが、泣塔は「かつてこの地で激戦の悲劇があった」ことを伝え続ける縁(よすが)ともなっています。
乗り越えるべき過去がある一方で、忘れてはならない過去も、確かにあります。
今後、この地がどれだけ華やかに発展しようとも、その片隅にはずっと泣塔が佇み、そっと平和への祈りが奉げられることでしょう。
アクセス
※「洲崎古戦場」石碑:湘南モノレール線「湘南町屋駅」から徒歩3分(レールに沿って湘南江ノ島方面へ)
※泣塔:湘南モノレール線「湘南深沢駅」から徒歩3分(深沢多目的スポーツ広場内、付近までは近寄れますが、周囲にフェンスがあり、立入には許可が必要です)