女性の宮仕えは玉の輿への道!?平安女流歌人たちのシンデレラストーリー:3ページ目
清少納言の主人・皇后定子の母「高階貴子」
清少納言が仕えた皇后定子の母親も、宮仕えによって高位の夫と出会った女性でした。『小倉百人一首』の第54番に
忘れじの 行く末までは かたければ 今日をかぎりの 命ともがな
という歌を採り上げられた儀同三司母こと高階貴子は、「男心などあてにはならない」と娘の将来の自立の道を考えた父の意向もあり、漢詩文の素養などを生かして宮仕えをするようになりました。
その知性を認められ、内裏の女官を統率する内侍の役職を務めた彼女は、宮中で後の関白・藤原道隆と出会い北の方(正妻)となりました。『栄華物語』には「多情な道隆が、彼女をすぐさま正妻に迎えた」とあり、その執心ぶりがよく分かります。
皇后定子が知性と教養で一条天皇の心を射止め最愛の后となったのも、伊周が20歳にして権大納言とスピード出世を果たしたのも、実家での貴子の教育あればこそでしょう。
清少納言は著書の中で
「結婚前に内侍などの役職に就いて活躍していた女性が妻なら、結婚して家に入ってからもその経験が夫の職務に役立つことがある。それに妻が時々内裏に参内したり、朝廷の使いなどに立つのも、とても鼻の高いことではないかしら?」
と言っています。当時としてはかなり斬新な発想でしょうが、だからこそ当時の女性の読者たちは『枕草子』に夢中になったのかもしれませんね。
【参考文献】
◯『枕草子のたくらみ』 著:山本淳子
◯『百人一首物語』 著:福田清人