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ゲゲゲの鬼太郎の原型! 幻の紙芝居「ハカバキタロー」と紙芝居作家たち【1】

ゲゲゲの鬼太郎の原型! 幻の紙芝居「ハカバキタロー」と紙芝居作家たち【1】

紙芝居作家「水木しげる」誕生

紙芝居を書き始めてまもなく、茂は林画劇社の顧問を勤めていた鈴木勝丸と知り合います。

鈴木勝丸は、明治37(1904)年に東京・神田に生まれた生粋の江戸っ子。紙芝居の草創期から「説明者」として活躍しました。説明者とは、いわゆる「紙芝居屋のおじさん」のことです。

鈴木は語りの名人でした。「勝丸調」と呼ばれる名調子が評判を呼び、彼が語る紙芝居のレコードが発売されたほどです。芸達者であり紙芝居に情熱を傾けた人物だったものの、商才はありませんでした。金銭面で苦労した鈴木は、戦後、妻の実家がある神戸に移り住みます。

その後も関西の紙芝居業界に関わり、武良茂と出会うことになったのです。

鈴木は独立して「阪神画劇社」を立ち上げます。その際、新人だった茂を専属作家として招き入れました。

この辺りから茂は「水木しげる」を名乗るようになります。その原因も鈴木勝丸でした。鈴木は武良茂という名前を一向に覚えず、アパート名から「水木さん」とばかり呼んだのです。いちいち訂正するのが面倒になった茂は「じゃあ水木でいいや」と思ったといいます。そして結局「水木しげる」が生涯のペンネームとなったのでした。

ちなみに鈴木勝丸は、ドラマ『ゲゲゲの女房』に登場する紙芝居屋・杉浦音松のモデルだといわれています。

こうして紙芝居作家になった武良茂改め水木しげるに、鈴木はある頼み事をします。東京から加太こうじという男が来るので、水木荘に泊めてほしいというものでした。水木はこの願いを聞き入れ、以後、加太が関西に来る度に水木荘に泊めることになりました。

加太こうじは、紙芝居草創期の昭和6(1931)年に10代で画家として紙芝居の世界に飛び込み、いくつもヒット作を生み出した人物です。紙芝居の代名詞的作品『黄金バット』にも関わっています。戦後のこの時期には、紙芝居業界の中心人物になっていました。

そんな加太が、水木に絵の描き方など紙芝居の基本を教えました。この後2人の交流は続きます。

こうして「水木しげる・鈴木勝丸・加太こうじ」のトライアングルが完成したことが、『ゲゲゲの鬼太郎』誕生の第一歩となるのでした。

記事後編はこちら

ゲゲゲの鬼太郎の原型! 幻の紙芝居「ハカバキタロー」と紙芝居作家たち【2】

紙芝居作家として歩み出した水木しげる。ところで紙芝居作家の仕事とはどのようなものだったのでしょうか。漫画やアニメとは似て非なる、紙芝居の制作工程を整理しておきましょう。前回の記事はこちら。…

参考文献:
『紙芝居昭和史』加太こうじ(岩波書店)
『ゲゲゲの人生 わが道をゆく』水木しげる(NHK出版)
『ゲゲゲの女房』武良布枝(実業之日本社)
『水木しげるの「妖怪」人生絵巻』(朝日新聞社)
『紙芝居文化史ー資料で読み解く紙芝居の歴史』石川幸弘(萌文書林)
『紙芝居がやってきた!』鈴木常勝(河出書房新社)

画像出典:写真AC

 

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