民衆が背負った多大な負担…桓武天皇が遷都した平安京が「未完の都」とされる理由とは?:2ページ目
1.「造作」 ~平安京造営事業~
遷都後も平安京の整備は完全には終わらず、段階的に進められました。和気清麻呂の提案によって、山背国は山城国と改名され、都を中心とした新しい地名が整備されました。
この造営事業には多くの農民が動員され、社会全体に大きな負担を与える一因となりました。
2.「軍事」 ~蝦夷の平定事業~
東北地方に住む蝦夷(えみし)の平定は、桓武天皇にとって緊急課題でした。780年、光仁天皇の代に伊治呰麻呂が多賀城を焼き討ちした事件を受け、桓武天皇は征東大使・紀古佐美を派遣しましたが、敗北に終わります。
その後、坂上田村麻呂が征夷大将軍に任命され、次のような成果を上げました。
802年:蝦夷の族長・阿弖流為(あてるい)を帰順させる。
802年:胆沢城(いさわじょう)を築き、鎮守府を多賀城から移転。
803年:志波城を築城。
805年、桓武天皇は藤原緒嗣(ふじわらのおつぐ・式家)と菅野真道(すがのの まみち)に「良い政治とは何か」を議論させました。これを「徳政論争」といいます。この論争のなかで、緒嗣は次のように述べました。
「現在、民衆を苦しめているのは、蝦夷平定事業と平安京の造営事業です。この二大事業を停止すれば、民衆の苦しみはなくなります。」
真道は造営の責任者であり、中止に反対しましたが、最終的には緒嗣の意見が採用され、桓武天皇は二大事業の中止を決断します。
これにより、民衆は「造作」という負担から解放されました。その一方で、蝦夷平定はその後も断続的に進められ、811年には文室綿麻呂によって最終的な平定が行われました。
平安京遷都と蝦夷平定という壮大な事業は、桓武天皇の強い決意と日本の未来を見据えた政策でした。しかし、その代償として民衆が背負った負担もまた、見逃すことはできません。桓武天皇の時代は、当時の社会の在り方に大きな転換点となったのです。
参考
- 桃崎 有一郎『 』( )