明智光秀と共に戦死!「本能寺の変」を成した5人の重臣”明智五宿老”とは?【前編】:2ページ目
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4. 藤田 行政(ふじた ゆきまさ)
通称は「伝五(でんご)」。光秀の父親の代から明智家に仕えていたとされる。織田信長と足利義昭対立後、光秀によって落とされた山城国の山本氏が守っていた静原山城に入城した。
大和国(現在の奈良県)の戦国大名である「筒井順慶(つついじゅんけい)」と、光秀の取次役として活動したともいわれるが定かではない。
5. 溝尾 茂朝(みぞお しげとも)
前半生は不明な点が多い人物である。1573年以降は、「三沢秀次(みさわひでつぐ)」の名で、光秀の与力として越前国の代官(領地の支配を代行する地位)を努め、越前支配の実権を掌握したという。
1574年。越前で一向一揆が勃発したことにより京都へ落ち延びる。その後は、光秀の丹波侵攻に従軍。1580年。光秀が京都に築いた周山城(しゅうざんじょう)の曲輪に居を構えたという。
五宿老の由縁
五宿老は、光秀の家臣として明智家における重要な地位にあった人物たちであるが、上述の5名を特別に五宿老と呼ぶ理由には、本能寺の変が深く関わっている。
光秀による決意表明
光秀は、信長誅殺の決意を情報漏洩の危険性を鑑みて事前に漏らすことはなかったが、上述の5名にのみ打ち明けていたとされる。これは、光秀からの信頼度を示す逸話であり、上述の5名を五宿老と定義する根拠となっている。
全員の敗死
五宿老は全員が光秀の後を追う形で戦死している。結果的に光秀と運命を共にする形となった事が、忠臣としての印象を象徴的なものとした。
次回の【後編】では、本能寺の変や、後に起こった山﨑の戦いにおける五宿老の立ち回りやその後をご紹介する。
【後編】の記事はこちら↓
わずか5日間で全員が戦死。明智光秀と共に本能寺の変を成した5人の重臣「明智五宿老」とは?【後編】
明智光秀の腹心とされる5名の家臣は、「明智五宿老」と呼ばれ光秀の元で活躍した。【後編】では、本能寺の変から山﨑の戦いにおける五宿老の活動を振り返りたい。【前編】の記事はこちら↓[insert…
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