明智光秀と共に戦死!「本能寺の変」を成した5人の重臣”明智五宿老”とは?【前編】
1582年。明智光秀は京都の本能寺を急襲し、主君である織田信長を討ち取った。このクーデター成功の背景には、光秀を支えた5人の重臣たちの活躍があったとされる。
今回は、明智光秀が信頼をおいた5人の家臣「明智五宿老」をご紹介する。
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1. 明智 秀満(あけち ひでみつ)
生年月日は定かでない。左馬助(さまのすけ)の通称で知られる。出自には謎が多く、一説には光秀の叔父である明智光安の子であり、光秀とは従兄弟であったとされる。また、三宅姓を名乗っていた記録も残っており、明智家の家臣であった三宅氏の一族である可能性も残っている。
1553年。美濃国斉藤家の内紛によって、美濃を追われた光秀と共に越前へ渡ったとされる。光秀の家臣として仕え、1578年には光秀の娘と結婚している。
1579年。光秀が丹波国(現在の京都・兵庫・大阪を跨ぐ地域)を平定すると、福知山城を預けられた。本能寺の変直前まで在城したという。
2. 明智 光忠(あけち みつただ)
明智光秀の叔父である明智光久の子であり、光秀のいとこにあたる。1540年生まれと考えられており、光秀より年下であったとされる。生前の資料が乏しい人物で、実像はあまりわかっていない。時期は定かでないが、妻は光秀の次女であったという。
1579年。光秀の丹波国平定によって波多野氏から奪った八上城(やかみじょう)の城代となる。
3. 斎藤 利三(さいとう としみつ)
1534年。美濃斉藤氏の一族の元に生まれる。斎藤道三の息子である義龍に仕えたが、その後は光秀の家臣となった。光秀からの信頼が厚かったようで、筆頭家老として頭角を表した。兄弟に土佐国(現在の高知県)の大名「長曾我部元親(ちょうそかべもとちか)」の正室がいた関係で、明智家の外交に功績を成した。
光秀の丹波国平定に伴い「黒井城(くろいじょう)」城主となる。継室との間に生まれた娘には、後の江戸幕府3代将軍「徳川家光」の乳母であり、江戸城大奥の礎を築いた「春日局(かすがのつぼね)」がいる。