「暴れん坊将軍」こと8代将軍・徳川吉宗は本当に名君だったのか?〜 享保の改革の光と影:3ページ目
都市部に広がる混乱
しかも問題は、農村だけにとどまりませんでした。
都市部では、徴収量の急増によって米の価格が暴落し、経済が低迷します。
その対策として、吉宗は大坂堂島に米市場を開いて米価の調整を図ったのですが、武士に有利なように米価を操作したため逆に高騰してしまったのです。享保の飢饉と呼ばれる凶作の影響もあって、米相場は不安定なままでした。
さらに、遊郭や芝居を禁止して倹約を強制し、出版物を規制したことも庶民にとっては不満の種でした。
こうして見ていくと、幕府にとって有益な政策だった享保の改革は、庶民生活の締めつけによって成り立っていたと言っても過言ではないでしょう。
こうした吉宗の政策の影響は、彼の引退後にも及んでいます。あろうことか、享保の改革は幕政改革のお手本となり、幕府はのちの改革においても質素倹約をモットーに民衆を締めつけるようになったのです。
権力者の立場から見れば、徳川吉宗は幕府財政を健全化した名君と言えるかも知れません。しかし庶民の立場からすれば、窮屈な生活を強いてくる、明らかに迷惑な存在だったのは間違いないでしょう。
参考資料:日本史の謎検証委員会・編『図解最新研究でここまでわかった日本史人物通説のウソ』彩図社・2022年
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