「暴れん坊将軍」こと8代将軍・徳川吉宗は本当に名君だったのか?〜 享保の改革の光と影:2ページ目
強まる農村の反発
吉宗は、改革の一環として新田開発を行いましたが、開発可能な土地は家継の代までで開墾され尽くしていました。
残っていたのは、開発不可能とされた土地や、放置された土地ばかり。それを無理やり開墾させたので、農民には大きな負担がのしかかります。中には、薪と肥料の調達場所まで田畑にされたことで、かえって生活が困窮した村もあったとか。
さらに庶民にとって痛手となった政策がありました。幕府が年貢の徴収量を増やすために、徴収方法を収穫高に比した検見法から、比率を一定にした定免法に変更したのです。
また、あわせて凶作の場合に実施していた減免制も廃止。こうして幕府の財政は潤ったものの、農村部へのダメージは大きなものがありました。
こうなると、民衆の不満はいやが上にもくすぶっていきます。畑の租税増加や河川敷の土地課税の実施もあいまって、吉宗に対する反発は強まりました。
その結果が一揆の増加です。1700年代初頭には約四十件程度だった一揆が、吉宗の時代には最大八十件を超えているのです。