奈良時代の聖武天皇は引っ越しがお好き?風変わりな天皇が遷都を繰り返した目的は何だったのか?:2ページ目
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さまざまな説
度重なる遷都の目的として有力なもののひとつに、国土の復興説があります。
反乱前後の平城京は疫病の傷跡が色濃く残り、河川も人骨が散乱するほどの惨状でした。そんな穢れが蔓延する都から離れ、新しい都で心機一転しようとしたのではないかという説です。
奈良時代初期から離宮が置かれ、『万葉集』で山川の清浄さが絶賛された恭仁宮は、まさに国の穢れを浄化するのに最適な地でもありました。
もっともこの説では、なぜ造営途中で紫香楽宮や難波宮に遷都したのかは説明できませんが、少なくとも恭仁京への遷都の説明としては無視できません。
仮説は他にもあります。例えば朝廷政争説です。
奈良時代は、朝廷内で藤原氏や皇族、貴族の対立が頻繁に起きていました。これに危機感を抱いた天皇が平城京を捨てた、という説です。
その他には、唐の複都制をまねて複数の首都を置こうとしたという説もあります。また、行幸のルートが壬申の乱における天武天皇の進軍路と似ていることから、壬申の乱を再現して天皇の権威復興をアピールしようとしたとする説もあります。
聖武はその治世で、戦乱や政争、自然災害に相次いで直面しました。そうした境遇のなかで大きな迷いを抱き、都を転々とするようになったのかも知れませんね。
参考資料:日本史の謎検証委員会・編『図解最新研究でここまでわかった日本史人物通説のウソ』彩図社・2022年
画像:photoAC,Wikipedia
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