父を傷つけまいと痛みに耐え忍ぶ…平安時代の武人・公助の親孝行エピソード【光る君へ 外伝】:2ページ目
『前賢故実』意訳
公助は一条天皇の時代に、摂政・藤原兼家(かねいえ)の随身(ボディガード)として仕えた武則(たけのり)の子である。
ある時、右近馬場で賭射(賭弓とも)に臨んだところ、公助の結果は散々(※)でした。
(※)この「人の如くならず」という表現が、単に負けてしまったのか、それとも人並みの成績すら出せなかったのかは判断が分かれるところです。
「このたわけ者め、武人の子が何たる体たらくか!」
そばで様子を見ていた武則が激怒し、公助を鞭(棒杖)で殴ります。
公助は逃げも隠れもせず、ひれ伏して父の打撃をひたすら耐え忍びました。
やがて武則は怒りが収まると去って行きましたが、公助はボロボロです。
人々は公助に尋ねました。
「何ゆえ逃げなかったのか?あなたの足なら、老いたお父上から逃げ出すなど容易であったろうに」
これに対して、公助は息も荒く答えます。
「父上は年老いて気が短くなっているゆえ、私が逃げれば必ず追いかけようとなさるだろう。もし転んでお怪我などされれば、それこそ私の重罪である。父上が傷つくことを防げるなら、私が少しくらい傷つくことなど安いものだ」
まぁ怒ってはいても父親ですから、本気で殺そうとはするまいし……そんな公助の態度に、人々は感動を覚えずにはいられなかったのでした。
めでたしめでたし。
終わりに
今回は『前賢故実』より、公助のエピソードを紹介してきました。
ちなみに公助は伝承によって下毛野(しもつけぬ)氏であったり秦(はた)氏であったりするようです。
『今昔物語集』では下毛野敦行(あつゆき)の子とされ、『古事談』では秦武則の子とされていました。
今回の親孝行ぶりに感動した中には内覧(書面では関白と表記)の藤原道長もおり、その後覚えめでたく取り立てられたと言います。
寛弘5年(1008年)には右近将曹(うこんのしょうそう)を務め、騎射に秀でた武人となりました。
『今昔物語集』では同僚の茨田重方(まんだの しげかた)らと伏見稲荷に詣でるエピソードも伝わります。
NHK大河ドラマ「光る君へ」に登場することはないでしょうが、道長を護衛する武人らの一人として、画面の片隅を彩るかも知れませんね。
※参考文献:
- 菊池容斎『前賢故実 9』国立公文書館デジタルアーカイブ