全国で唯一「お寺がない村」!そこに建つ南無阿弥陀仏の石碑に秘められた歴史とは!?:2ページ目
神社とお寺は別物です!という法律
その背景には、明治時代に施行された「神仏分離令」という法律がありました。
日本ではもともと、アニミズム(生物・無生物問わず全てに魂や霊が宿るという考え方)を基にした信仰が土着しており、神道と一緒になっていました。西暦500年代になって、そこに外来の宗教である仏教が入ってきます。
世界の例を見れば、そこで宗教戦争や潰し合いが起こるものですが、日本人は神道と仏教を一緒にお参りするというハイブリッドな方法で、外来のものを取り込みました。
浅草寺というお寺の中に浅草神社があるのもその名残で、これを「神仏習合」といいます。
この文化は仏教が伝来してから明治時代までのおよそ1300年にもわたり、日本人が繋げてきた信仰の姿でした。それを明治政府は「神仏分離令」で分断します。
法律としての記載は、単に「神と仏をわける」というだけのものでしたが、政府が国の宗教を神道としたことで、仏教は悪であるという流れが生まれます。
そうして、仏像やお寺を燃やし壊してしまう「廃仏毀釈」が全国にひろまっていったのです。
壊されないために自分で壊す
破壊の手は、この山の中の小さな東白川村へも近づいてきます。
村の人たちは、毎日、朝な夕なと手を合わせていた南無阿弥陀仏の石碑、大切な「ごいっしょうさま」も、粉々に壊されてしまうのではないかと、行く末を案じていました。
そして、東白川村の人たちは、自らの手で「ごいっしょうさま」を先に破壊して、隠そうと決めたのです。
石碑の横へ回ってみると、石碑は4つに割れています。これは村の人たちが割ったものです。
「ごいっしょうさま」を割った破片は、村の中の庭石や石段の一つのように見せかけて隠したのです。
とはいえ、毎日手を合わせていたものを割るなんて、どれだけ心がいたんだことでしょう。さらには、仏教のものだとバレないように石段として、これまで信仰してきた「ごいっしょうさま」をを踏むことの悲しみは、想像を絶するほど。
しかしそのおかげで、村内のお寺はことごとく破壊の憂き目に遭いましたが、「ごいっしょうさま」は何とか廃仏毀釈の目をすり抜けたのです。