死因は抜きすぎ!?神武不殺の剣豪でもあった福沢諭吉が寿命を縮めてしまった激しすぎる修行とは:2ページ目
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死因は「抜きすぎ」!?激しすぎる居合の稽古
そんな諭吉は明治維新がなった晩年になっても居合の稽古を怠ることはありませんでした。
まさしく「治にあって乱を忘れず」を体現しており、本人がつけていた稽古日記によれば、一人千本以上も抜いていたそうです。
これを諭吉は健康のためと言って実践していたそうですが、一日千本の居合稽古はいくらなんでもハード過ぎはしないでしょうか。
後世の医学者・土屋雅春(つちや まさはる)は諭吉の死因を「居合稽古のやりすぎ」と指摘しています。
(ただし土屋の生きた年代は諭吉と異なっており、直接診断などしたわけではありません)
エピローグ
寿命を縮めて?まで居合に打ち込み続けた諭吉。しかし明治時代も中期に差しかかって、人々の間に武芸ブームが起こると、パタッと居合をやめてしまいました。
正しくは「人前で居合に心得のある素振りを見せなくなった」ということです。
自分が永年命をかけて修錬した居合が、いっときの流行りものと同じにされるのは堪え難かったのであろうと察します。
いつ斬られるかなんて心配をしなくてよくなった(比較的)平和な世の中で、娯楽のように武芸が語られるのは、実にやるせない思いだったのかも知れません。
あるいは平和になったことを喜びながら、かつて闘いの刃に斃れた敵味方たちをそっと偲んだのでしょうか。
終わりに
明治34年(1901年)2月3日、福沢諭吉は数え67歳で生涯を終えました。
土屋雅春が指摘した激しすぎる稽古がなければ、もっと長生きしていたのでしょうか。
それにしても、思想家や教育家として知られている諭吉が剣豪でもあったというのは意外でしたね。
逃げ続けて生涯無勝無敗。いたずらに幕末維新の志士を一人も斬らなかった事こそが、諭吉にとって最大の勝利だったのかも知れません。
※参考文献:
- 富田正文 校訂『新訂 福翁自伝』岩波文庫、1937年4月
- 土屋雅春『医者のみた福澤諭吉 先生、ミイラとなって昭和に出現』中公新書、1996年10月
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