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あまりにも壮絶すぎる…13歳の実娘が切腹の介錯をした戦国武将・黒木家永の波乱に満ちた生涯

あまりにも壮絶すぎる…13歳の実娘が切腹の介錯をした戦国武将・黒木家永の波乱に満ちた生涯

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2024/02/22

大友から龍造寺へと鞍替え

宗麟に再仕官した家永は元亀元年(1570)の今山の戦い、天正6年(1578)の耳川の戦いに従軍しますが、いずれも敗北。特に耳川の戦いでの敗戦は大友氏の衰退を招いてしまいます。

これをきっかけに龍造寺隆信が筑後に侵攻し、家永は筑後十五城だった蒲池鎮漣(かまち-しげなみ)や田尻鑑種(たじり-あきたね)、西牟田鎮豊(にしむた-しげとよ)らと共に隆信に仕えました

しかし、天正9年(1581)に蒲池鎮漣が謀殺され、一族が滅ぼされる事件が起こります。

その中に家永の弟・蒲池益種もおり、親戚関係だった蒲池氏と弟を殺害された家永は大激怒。隆信に反旗を翻しました。

家永は猫尾城で籠城しますが、龍造寺政家・鍋島直茂に包囲され、肥前の国人である草野家清の仲裁で和睦しました。その際に嫡男の黒木延実を人質に差し出しています。

居城を大友の雷神と風神に包囲される

家永は再度隆信に仕えますが、天正12年(1584)の沖田畷の戦いで隆信が討ち死にしてしまいます。隆信の突然の死に家中が動揺する中で、家永は離反することなく臣従を誓う起請文を送っています。

また、隆信の死を好機と見た宗麟は筑後を取り戻すために侵攻を開始。当然猫尾城も標的となり、1万2千の兵に包囲されました

家永は2000に満たない兵数でありながらも龍造寺氏からの援軍もあり、防戦し続けていました

この状況に焦った宗麟は立花道雪と高橋紹運を援軍に迎えます。2人は支城の高牟礼(たかむれ)城を守っていた家永の家臣・椿原式部に調略を仕掛けました。

椿原式部の裏切りを受け、家中は混乱すると共に2ヶ月間戦い続けていたこともあり、兵糧も尽き果てます。

もはやこれまでと見た家永は悲憤の思いを抱きながら潔く切腹を決めました

3ページ目 家永の切腹での介錯は13歳の実娘が…

 

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