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したたかで狡猾、有能な徳川慶喜。「大政奉還」直後、政争は慶喜に有利に動いていた?【中編】

したたかで狡猾、有能な徳川慶喜。「大政奉還」直後、政争は慶喜に有利に動いていた?【中編】:2ページ目

最後の手段としての王政復古

で、大久保利通はというと、朝廷に討幕勅命の発出を正式依頼したところでした。

これで勅命が降下すれば、慶喜は逆賊となり武力倒幕が可能になります。

だがなんと、その密勅が下された翌日に慶喜による大政奉還上奏が勅許されたのです。ここで、大久保が描いた武力討幕のシナリオは完全に瓦解し、密勅も停止されました。

大久保はここでも慶喜に出し抜かれたのです。しかもこの時点では長州藩はまだ逆賊扱いであり、ここで薩摩藩が孤立すれば、もう慶喜に敵はいません。

そして、これを受けて大久保が島津久光・忠義に対して最後の手段として建議したのが、王政復古のクーデターだったのです。

倒されていない慶喜

さて、大政奉還後の慶喜は、征夷大将軍だけ辞めた状態でした。九月には権大納言から内大臣になったばかりで、右近衛大将の肩書もそのままです。

つまり慶喜はただ将軍職を辞しただけで、七百万石という領地や旗本八万旗は彼が掌握している状態でした。大政奉還によって失った権力など、一切なかったのです。

その後の内政・外交も相変わらず彼が行い、12月7日の兵庫港開港でも、諸外国に対して慶喜が実質的な国家元首であることが示されています。

そして、やがて明治天皇による「王政復古の大号令」が発令されました。264年にわたる徳川幕府の支配は、表面的にはここで終わったはずでしたが、慶喜はまだまだ倒されてはいません。

なんと、王政復古の大号令が発令されたその直後から、さっそく各藩を巻き込んだ騒動が始まるのです。

【後編】では、1867年12月9日の夜に行われた「小御所会議」の顛末とその後について解説します。

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したたかで狡猾、有能な徳川慶喜。「大政奉還」直後、政争は慶喜に有利に動いていた?【後編】

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参考資料:
日本史の謎検証委員会『図解 幕末 通説のウソ』2022年
倉山満『日本史上最高の英雄 大久保利通』徳間書店、2018年

 

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