徳川家に代々仕え忠義を尽くした「勝(すぐろ)一族」三方ヶ原合戦では武田軍を相手に奮戦【どうする家康 外伝】:2ページ目
二代目・勝重久(安右衛門)
●重久
安右衛門 與一郎 母は某氏。広忠卿をよび東照宮に歴仕し、上野城を攻給ふの時先登し、また鎗下の高名あり。大場にをいて矢にあたり、創をかうぶる。元亀三年三方原合戦のとき敵と太刀打し、錣をかけてかの兵をとる。御帰陣ののち仰によりて其帯せし所の吉房の刀を献ぜしかば、永楽銭十貫文をたまふ。その後本多作左衛門重次が手に属し、某年死す。年七十。
今の呈譜、慶長十三年死す。年七十三。法名栄喜。
※『寛政重脩諸家譜』巻第千九十三 藤原氏(支流)勝
天文5年(1536年)生~慶長13年(1608年)没
別名を勝與一郎、母親は不詳。松平広忠と家康に仕え、永禄6年(1563年)の上野城攻めで一番乗りを果たし、槍働きを見せました。しかし大場の戦闘では、敵の矢を受けて負傷しまったそうです。
元亀3年(1572年)の三方ヶ原合戦では武田の軍勢を相手に奮戦し、敵と太刀打ちとなりました。兜の錣(しころ。後頭部とうなじを保護する部分)から刃を貫いて敵を討ち取ったと言います。
敵が吉房の銘刀を持っていたのでこれを戦利品として持ち帰ったところ、家康から献上するよう命じられました。
「のう安の字、これをわしに譲らぬか?もちろんタダでとは言わぬ」
「……御意」
果たして安右衛門は銘刀を献上、代金として永禄銭十貫文(現代の価値で約10~12万円)を与えられます。
その後、本多重次(作左衛門)の部下となって数々の戦場を渡り歩き、慶長13年(1608年)に73歳で亡くなったそうです。