徳川家に代々仕え忠義を尽くした「勝(すぐろ)一族」三方ヶ原合戦では武田軍を相手に奮戦【どうする家康 外伝】:3ページ目
三代目・勝重昌(五左衛門)
●重昌
五左衛門 母は某氏。天正十八年小田原陣のとき、めされて東照宮に拝謁し、本多作左衛門重次が隊下となりて供奉す。のち本多正純が手に属し、元和八年十月正純罪かうぶるのとき處士となり、某年死す。年七十二。法名道喜。 今の呈譜、寛永十六年六月十一日死す。年七十三。法名道■。
※『寛政重脩諸家譜』巻第千九十三 藤原氏(支流)勝
永禄10年(1567年)生~寛永16年(1639年)6月11日没
天正18年(1590年)の北条征伐に際して家康と謁見。父と同じく本多重次の部隊に配属されました。
後に本多正純の家臣となりますが、元和8年(1622年)10月に正純が謀叛の容疑で改易されると浪人(処士)となり、寛永16年(1639年)6月11日に73歳で亡くなったそうです。
終わりに
【勝氏略系図】
藤原師輔……本多助定(右馬允)……勝重信(六郎左衛門)-勝重久(安右衛門)-勝重昌(五左衛門)-勝重定(三右衛門)-勝忠宗(源左衛門)-勝忠重(助九郎)-勝重晴(兵蔵)=勝忠昌(清次郎)-勝忠次(斧三郎)……
※『寛政重脩諸家譜』巻第千九十三 藤原氏(支流)勝
以上、松平家(徳川家)に代々仕えたマイナー武将・勝一族を紹介してきました。
没落してしまった重昌の子・勝重定は徳川秀忠に仕え、なおも忠義を尽くしていきます。
●重定
三右衛門 母は某氏。台徳院に仕へたてまつり、御徒をつとむ。其後富士見番に転じ、承応二年八月十六日死す。
※『寛政重脩諸家譜』巻第千九十三 藤原氏(支流)勝
生年不詳~承応2年(1653年)8月16日没
【意訳】秀忠に仕えて御徒(おかち。騎乗せず徒歩で従う下級武士)を勤め、のちに富士見番(江戸城・富士見櫓の警固)に当たりました。
徳川の治世は、こうした地味な武士たちの忠義によって支えられ、実に二世紀半の永きにわたり栄えたのです。
今もこの勝(すぐろ/すぐり/かつ)一族は日本のどこかで活躍していることでしょう。どこかで巡り合えたら胸が熱くなりますね!
※参考文献:
- 『寛政重脩諸家譜 第8輯』国立国会図書館デジタルコレクション