石田三成はじめ有能ぞろい!豊臣政権を支えた5人の家臣「五奉行」の各奉行を一挙ご紹介【どうする家康】:5ページ目
財政担当・長束正家
五奉行の末席で主に財政を担当していたのが長束正家(なつか-まさいえ(演:長友郁真さん))です。
丹羽長秀に仕えていた正家は、丹羽氏が財務上の不正により減封処分を受けると、帳簿を証拠として提出し抵抗。これにより、高い算術能力を買われて秀吉の家臣となりました。
豊臣政権では財政を一手に担い、豊臣氏の直轄地の管理や太閤検地の実施を行いました。
正家は、兵糧の輸送に関わる奉行職である兵糧奉行を引き受け、天正14年(1586年)の九州平定や天正18年(1590年)の小田原征伐で活躍を見せます。
特に小田原征伐では、20万石の兵糧を問題なく輸送したほか、小田原周辺の米を3万石買い占め、小田原城を兵糧攻めにする働きを残しました。
また、朝鮮出兵でも兵糧奉行を務めました。
他に、農村再建に貢献し、中川秀成の豊後移動の際、隣接する蔵入地代官に協力を求めて、戦によって荒廃した農村の再建、逃亡した農民の還住策を指示した功績も残しています。
秀吉没後は、三成の家康打倒の計画に協力し、慶長5年(1600)に伏見城の戦いに参加。城兵を寝返らせ、内部放火を合図に伏見城を攻略に導いた戦功を挙げました。
続く関ヶ原の戦いでは、毛利秀元や吉川広家と共に南宮山に布陣するも、広家の妨害で参加できずに西軍壊滅と同時に撤退を余儀なくされます。
その後は、居城の水口城に戻るも東軍の池田長吉に欺かれ捕縛。弟の直吉と共に家臣の介錯で切腹し、39歳の生涯を終えました。
最後に
五奉行は関ヶ原の戦いを期に解体されてしまいましたが、秀吉が生きている内に組織として構成されていれば、豊臣政権は長く続いていたかもしれません。
また、五奉行に任命されているだけあって個々人の能力が高いことも特徴で、5人が協力していれば家康の台頭に対抗できたかもしれないと思うと、より一層5人のことについて理解が深まるかと思います。