【朝ドラらんまん】要潤演じる田邊彰久のモデル!東京大学理学部の初代教授・矢田部良吉の生涯④:2ページ目
日本の植物学の歩みを進めた瞬間、道を断たれる…
植物学の世界において独創状態の良吉でしたが、やがてその活動にも終わりの時が訪れます。
明治23(1890)年10月、良吉は『植物学雑誌』の中で「泰西植物家諸氏ニ告グ」とする文章を英語で載せています。
文章は、東京大学に集積された標本と文献資料を土台に、日本の研究者によって植物記載を行うことを宣言したものでした。
良吉は『植物学雑誌』の誌面にいて論文を次々と発表。のみならず図版を掲載した『日本植物図解』や『日本植物編』などの書籍を出版しています。
しかし人に対して激烈な批判を加える性格が災いし、良吉は周囲から敵対視されることも多くなっていました。
やがて良吉は東京大学学長・菊池大麗と対立。確執を深めたとされ、大学から非職(休職だが、事実上の停職処分)とされます。
確かな理由は不明ですが、良吉の周囲との軋轢、加えて東京女子高等学校での騒動が槍玉に挙げられたのでは、と予想できます。
そしてこの瞬間、良吉による世界の植物学研究に加わる思いは、完全に断たれたことを意味していました。
演説に見る、古き学問を認める姿勢
植物学者の道が断たれた良吉ですが、教育における活動には変わらず関わり続けていました。
明治24(1891)年、良吉は群馬県の「桐生教育会」において演説。教育と学問について論じています。
良吉は、従来の教育制度では不十分だと考えており、学校の運営設立が急務だという立場でした。
学術研究と教育は密接不可分の存在であると、良吉は考えていたようです。
演説において良吉は、教員によるより良い教育を行うための方法論を力説していました。
内容は教員の地位保証や、専門分野を探求するための時間を確保の必要性まで多岐にわたります。
さらに良吉は江戸時代の本草学者たちを引き合いに出していました。
封建時代に生きた彼らは、むしろ身分安全な環境で学問に勤しんでおり、学問に対する誠実さがあったというのです。
この頃の良吉は江戸時代の岩崎灌園の『本草図譜』写本を入手。本草学に触れた形跡が見られます。
かつては西洋主義的な考えが強かった良吉。時を経るにつれ、古き良きものを認める姿勢も見られていました。
3ページ目 東京大学を去った後、東京高等師範学校の英語教授となる