【朝ドラらんまん】要潤演じる田邊彰久のモデル!東京大学理学部の初代教授・矢田部良吉の生涯④:3ページ目
東京大学を去った後、東京高等師範学校の英語教授となる
明治27(1894)年、良吉は正式に東京大学の教授職を免官。完全に東京大学から追われることとなりました。
翌明治28(1895)年、良吉は東京高等師範学校に奉職。英語担当の教授として生徒指導にあたります。
東京高等師範学校は官立の教員の養成機関でした。留学経験と高い英語能力を買われて、良吉が任命されたようです。
赴任後の良吉は、学生の育成に熱心に取り組んでいました。
同年、良吉はアメリカの魚類学者・ジョーダンに手紙を送付。高等師範学校の英語教授に適した人物の紹介を頼んでます。
ジョーダンは当時のスタンフォード大学の初代学長であり、世界でも指折りの学識経験者でした。
学生の英語能力向上のため、良吉は立場や国籍を超えて活動していたことがわかります。
良吉は、東京高等師範学校に在籍時、周囲の人間にも恵まれていたようです。
良吉が赴任した時、東京高等師範学校の校長であったのが、大河ドラマ『いだてん』でも知られる、柔道家の嘉納治五郎でした。
良吉はかねてから嘉納治五郎と親交を結んでおり、実際に手紙のやり取りもしています。
明治31(1898)年、良吉は東京高等師範学校の校長職に就任。教員たちを束ねる存在として、日本の教育行政に関わり続けます。
嘉納治五郎らの推挙があったかはわかりませんが、良吉の能力が評価されての人事であることは間違いありません。
翌明治32(1899)年の日記には、日本全国から良吉を訪ねてきた卒業生や就職希望者などが記されています。
東京大学を去ってからも、良吉は忙しく学生たちの指導・育成に明け暮れていたことがわかりますね。
避暑中の鎌倉で悲劇が起こる…
矢田部良吉は、研究分野だけでなく教育においても、日本の歴史を変えたと言っていい人物でした。
しかし程なくして、良吉は不慮の事故に遭遇することなります。
翌明治32(1899)年8月7日、良吉は避暑中の鎌倉で遊泳中、溺れて命を落としてしまいました。享年47。
後年、良吉の墓石の碑銘の草稿は、彼の一番弟子である植物学者・齋田功太郎が担当。大学を離れてもなお、慕われていたことがわかります。
参考サイト
- 「文明開化の科学者,矢田部良吉の生涯」矢田部良吉デジタルアーカイブ 国立科学博物館HP
- 岡田章子「スキャンダルの両義性」立教大学リポジトリ