名前の由来は「ただ勝つのみ」。徳川家康を支えた四天王の一人、本田忠勝とは!?:2ページ目
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いわゆる“神軍伊賀超え”では、少人数のままでの弔い合戦を望む家康を諫め、本国に戻ることを優先させました。その際、避難先では先頭を進み、家康を無事に帰国させました。小牧・長久手の戦いのときには、秀吉の大群に僅か300の兵で対抗したという武勇伝も残されています。
武勇だけではなく、上杉謙信との折衝では取次役を務めた他、本能寺の変直後の弔い合戦に向けても、美濃の武将などに協力を求める添え状を発給する等、外交面でも優れた手腕を発揮しています。
さらに、小田原攻めでは武蔵、上総、下総、上野、下野の5ヵ国で48の城を攻略したと伝えられています。
家康の関東転封後は上総国に入り、大多喜城10万石を領しました。
忠勝の武勇について、武田信玄の近習、小杉左近は自身の落書に、「家康に過ぎたるものは二つあり、唐(から)の頭(かしら)に本多平八」との狂言を残しています。
また、信長や秀吉からもその武功が称賛されています。
参考
市橋章男『家康を支えた三河武士 本田忠勝 井伊直政』(2017 正文館書店岡崎)
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