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「どうする家康」殿は、きっと大丈夫。信玄は既に……?第18回放送「真・三方ヶ原合戦」振り返り:5ページ目
織田の援軍・佐久間信盛と水野信元
「上手く逃げろよ?家康……」
織田信長(演:岡田准一)より援軍として派遣されたものの、徳川勢の壊滅を見届けるやさっさと兵を退いて帰ってしまった佐久間信盛(援:立川談春)と水野信元(援:寺島進)。
実のところ、彼らは浜松城に残って守りを固めており、三千騎の予備兵力があったからこそ信玄は浜松城攻めを断念したのでした。
その後、佐久間信盛は信長に対して「水野は武田と通じている」と讒訴(ざんそ。相手を陥れるため、偽りの訴えを起こすこと)し、そのために信元は尾張国を追われて甥っ子・家康のいる浜松へ逃げ込みます。
家康は伯父をかばおうとしますが信長には逆らえず、結局のところ信元を暗殺してしまいました。
初登場から不穏な空気が漂っていた佐久間・水野の二人ですが、両者の不一致が悲惨な結末を匂わせていますね。
ちなみに、水野信元の遺領は佐久間信盛が賜りましたが、その信盛もやがて信長によって追放されてしまいました。所領は信元の遺児に返還されるのですが、それはまた別の話し。
「堂々とせえ」信玄の影武者は誰?
信玄の死を隠すため、急遽立てられた影武者。しかしその視線は何となくキョロキョロと定まらず、山県昌景に「堂々とせえ」と叱咤されていました。
家康の命を守るため、堂々と「我こそは徳川三河守家康」と名乗っていた夏目吉信とは対照的な演出でしたね。
ちなみに、通説ではこの影武者は信玄の弟である武田信廉(たけだ のぶかど。逍遥軒)。顔かたちが信玄そっくりだったそうです。
しかし信玄の弟君に対して、いくら宿老とは言え一部将にすぎない山県がそんなクチを利くとは考えられません。せいぜい「もそっと堂々となされませ」程度でしょう。
となると、この影武者は誰なのでしょうか。恐らく深いことは考えず、ただ「信玄が死んで、似ていようがいまいが影武者を立てた」ということなのだと思います。
キョロキョロしていたのは野田城の合戦で狙撃を受けたエピソードの演出なのかとも思いましたが、どうも違ったようです。
……信玄はいよゝゝ軍伍をとゝのへ。正月三河の野田の城にをし寄はげしく攻て。終に菅沼新八郎定盈城兵にかわりて城を開渡すに及て。たばかりてこれを生取しが。山家三方の人質にかへて定盈ふたゝび帰ることを得たり。この城攻の時入道鉄砲の疵を蒙り。四月十二日信濃国波合にてはかくなりぬ……
※『東照宮御実紀』巻二「信玄卒」
元亀4年(1573年。天正元年)1月に信玄は三河の野田城を攻略、守将の菅沼定盈(すがぬま さだみつ)を生け捕りました(その後、徳川家へ帰還)。
しかしこの戦闘において信玄は敵に撃たれ、その鉄砲傷がもとで4月12日に亡くなったと言います。
劇中では三方ヶ原合戦の直後に亡くなったような展開でしたが、実際には数カ月が経過していました。
肝心な信玄の遺言は次週に触れるのでしょうけど、影武者でも出て来ないとなると、どうやら信廉の登場はなさそうですね(何を今さら)。
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