その数10人超え!!三方ヶ原の戦いで討ち死にした徳川軍武将たちを紹介【どうする家康】:3ページ目
土屋昌続と一騎打ちをした鳥居忠広
鳥居忠広は鳥居忠吉の4男として生まれました。兄には鳥居元忠がいます。忠広は元忠と同様武勇に優れ、姉川の戦いでは先鋒を務めました。
また、三方ヶ原の戦いでは武田軍との兵力差から籠城を主張。そのことで成瀬正義から腰抜けと呼ばれ、喧嘩になりました。後ほど正義とは仲直りしています。
籠城ではなく夜戦を選択したことで徳川軍が敗北すると、忠広は殿を引き受けます。
そして、武田二十四将の1人・土屋昌続(つちや-まさつぐ)との一騎打ちで討ち取られました。
他の戦死者たち
三方ヶ原の戦いでの戦死者は、紹介した4人の他にまだおり、一覧で紹介します。
・田中義綱(たなか-よしつな)
・岡田元保(おかだ-もとやす)
・加藤景継(かとう-かげつぐ)
・外山正成(とやま-まさなり)
・大河内善兵衛(おおこうち-ぜんべえ)
・安藤基能(あんどう-もとよし)
また、三方ヶ原の戦いの前哨戦に当たる二俣城の戦いで敗北を招いた中根正照と青木貞治は、敗北の恥を雪ごうとして奮戦した後、討ち死にしています。特に正照は二俣城の城主を命じられていたので、敗北の責任を重く受けていたことが容易に想像できます。
最後に
三河一向一揆と違い、三方ヶ原の戦いでは多くの家臣を失ったことがわかります。敗北した上に夏目広次や本多忠真といった有力な家臣を失った悲しみと悔しさは、相当なものだったと思います。
『どうする家康』では三方ヶ原の戦いをどのように展開させていくのか関心が深まりますね。