山県昌景の生まれ変わり?徳川家臣・本多信俊の息子に表れた“吉兆”とは【どうする家康】:2ページ目
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「……それで浮かぬ顔をしておったのか」
「はい。日ごろ品行方正を心がけてはおったのですが、何の因果であのような子が……」
しょげ返る信俊を、家康は明るく励ましました。
「何を申すか。これは吉兆ぞ。武田の名将・山県三郎兵衛(昌景)は兎缺だったではないか。その子はきっと、長篠で討死した奴の魂が生まれ変わったに違いない」
家康はその子に本多山縣(やまがた)という名前を授けました。何だか苗字が二つ並んでコンビ名みたいですね。
やがて成長した本多山縣は元服して本多信勝(のぶかつ)と改名。家康の嫡男・徳川秀忠(ひでただ、台徳院)の小姓として重用されたのでした。
家康の武田家リスペクト
後年石川数正が京都へ立去し後。 當家の御軍法を皆甲州流に改かへられし時。山縣が侍どもを御前にめし。こたび汝等をもて井伊直政に附属せしむ。前々の如く一隊赤備にして御先手を命ぜらるれば。若年の直政を山縣におとらざらん様にもり立べし仰付られぬ。これらをもても山縣をば厚く御感賞ましましける事はかりしるべきにぞ。(落穂集。)……
※『東照宮御実紀附録』巻三「家康感山縣昌景」
その後も武田旧臣を召し抱えて精鋭部隊「赤備」を復活させ、井伊直政(演:板垣李光人)に率いさせたのは有名ですね。
兵法を甲州流(武田流)に一新するなど武田家をリスペクトしていた徳川家康。
武田家滅亡後も脈々と息づいた甲州武士の誇りと精強さが、彼に天下を取らせた一因と言えます。
NHK大河ドラマ「どうする家康」でも、その片鱗がそこかしこに感じられることでしょう。
これからも楽しみですね!
※参考文献:
- 『徳川実紀 第壹編』国立国会図書館デジタルコレクション
- 煎本増夫『徳川家康家臣団の事典』東京堂出版、2015年1月
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