電光石火の光秀討伐!羽柴秀吉は「中国大返し」をいかにして成し遂げたか:2ページ目
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「大返し」はいかにして成ったか
さて、高松城を発った秀吉は、怒涛の勢いで7日には姫路城に到着。10日は兵庫、11日には尼崎に着いています。しかもただ駆け抜けただけではなく、その間に畿内各国の国人へ書状を送り、自分の味方にする段取りまでつけていました。
そしてわずか一週間で彼は光秀軍と対峙し、山崎の合戦を制します。
彼の、この人間離れした中国大返しが可能になった理由はいくつかあります。まずひとつは、箝口令を敷いて信長の死が毛利軍に伝わらないようにしたこと。そうして和睦を結べば、追撃される心配はありません。
また先述の通り、畿内各国の国人を味方に引き入れたことも大きいでしょう。さらに秀吉は、京から中国地方に至るルートで、宿泊所や休憩所を先に設置していた上に兵糧の量も十分にありました。
こうして彼の中国大返しは成功したのです。実際には、この進軍日数はそこまで驚くほど短いものではない……とも言われていますが、しかし彼の迅速な行動と覚悟があったからこそ、最終的に光秀を討つことができたのは間違いないでしょう。
参考資料
『オールカラー図解 流れがわかる戦国史』かみゆ歴史編集部・2022年
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