織田信長・足利義昭の関係悪化は「十七カ条の異見書」ではなかった?現代の新説について解説【どうする家康】:2ページ目
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原因は「十七カ条の異見書」?
事の経緯は以上の通りですが、そもそも信長と義昭が決別した理由は十七カ条の意見書だけではなかったのではないか、と近年の研究では考えられるようになっています。
では本当の理由は何なのかというと、三方ヶ原の戦いで信長が援軍を送ったのに家康が負けたことで、義昭の周囲では信長よりも武田信玄を支持する者が増えたからではないか、という説があります。
他にも、信長が武田信玄の方に気を取られていたため、義昭は京の警備を信長に任せておくことを不安に感じたのではないか、とも言われています。
そういった空気が先にあったため、信長は十七カ条の異見書によって義昭を牽制したということです。
また、信長に義昭が敗れたことで、室町幕府はそこで滅亡したと言われています。しかし京を追放されてからも義昭の影響力は依然として残っており、その後も諸大名に信長討伐を呼びかけています。
本当の意味で室町幕府が滅んだのがいつの時点なのかというのは、諸説あるのが現状です。
参考資料
『オールカラー図解 流れがわかる戦国史』かみゆ歴史編集部・2022年
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