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毛利元就に尼子に大内…誰もが血眼になって奪い合ったその山の名は「石見銀山」【前編】

毛利元就に尼子に大内…誰もが血眼になって奪い合ったその山の名は「石見銀山」【前編】:2ページ目

争奪戦が始まる

このように見ていくと、石見銀山は世界規模の利益を生み出す銀山だったことが分かります。もともと石見銀山が発見されたのは鎌倉時代で、本格的な採掘が始まったのは16世紀、石見の領主だった大内氏によるものでした。

1533年には、博多の大商人である神谷寿禎によって技術者が招かれ、朝鮮半島由来の技法である灰吹法が用いられるようになります。

灰吹法は、銀を採掘現場で精錬することでより効率的に採掘を進めることができる技法で、これが全国の鉱山に伝わると、産出量はさらに増えたといいます。

このあたりから、大名による石見銀山の奪い合いがスタートします。

まず1538年には、出雲の尼子経久によって、一時的にではありますが奪われる事態になりました。これをきっかけに、尼子・大内による銀山の争奪戦が進んでいきます。

【後編】では、大内氏の衰退とあわせて毛利元就が登場し、尼子氏との抗争に突入していった経緯を解説します。

参考資料
『オールカラー図解 流れがわかる戦国史』かみゆ歴史編集部・2022年

 

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