北条政子が「尼将軍」と呼ばれたのはいつからなのか?【鎌倉殿の13人 こぼれ話】:2ページ目
2ページ目: 1 2
恐らく「尼将軍」というあだ名は政子の生前からささやかれており、その死後あたりから市民権を得た(使用が解禁された?)のでしょう。
しかしその伝承や原本は現存しないためハッキリと断定はできず、確実なところでは、室町時代後期(戦国時代)までには北条政子=尼将軍というイメージが確立していたとするにとどめます。
その他、成立年代は不確かながら『大乗院日記目録』にもこのような記述がありました。
嘉禄元年七月十一日、鎌倉尼従二位如雲(マヽ)入滅、八十九
故時政之女、頼家実朝公■(之カ)母儀、號尼将軍、【意訳】嘉禄元年(1225年)7月11日、鎌倉にいる従二位の尼・如雲(原文ママ、実際は如実)が亡くなられた。享年89(実際は69歳)。亡き北条時政の娘で、源頼家・源実朝の母。尼将軍と呼ばれた。
この「號尼将軍」が「尼将軍と(自ら)号した」のか、あるいは「尼将軍と(人々から)号された」のかは解釈が分かれるところ。しかし先に述べたとおり、ここは「号された」と解釈するのが自然でしょう。
終わりに
鎌倉殿の不在を支え、御家人たちに君臨した北条政子。その姿は名実ともに「尼将軍」だったようです。
果たして生前からそう囁かれていたのか(まさか自分で名乗ったのか)、今後の究明が俟たれますね。
※参考文献:
- 東京大学史料編纂所『大日本史料 第五編之二』東京大学出版会
- 東京大学史料編纂所『大日本史料 第五編之四』東京大学出版会
ページ: 1 2