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日光東照宮の造営が関係していた!? さいたま市岩槻が人形の町となった理由

日光東照宮の造営が関係していた!? さいたま市岩槻が人形の町となった理由

さいたま市岩槻区は人形の町として知られています。

同地を中心に生産されている岩槻人形は、製材時に出る桐の大鋸のくずに生の麩やにかわを混ぜ合わせたものが材料に使われています。それらを泥状にして、型にはめて固め、型から抜いた後に彩色を施します。「桐塑頭(とうそがしら)」と呼ばれる特別な製法は、幕末には岩槻藩の専売品に指定されるほど重要な産業となりました。

このような由来を持つ岩槻の人形づくりは、実と日光東照宮の造営と深い関係があります。

埼玉県岩槻市は、かつては城下町でした。その歴史は古く、1590(天正18年)、高力清長によって「岩槻藩」として開かれたのが始まりです。高力氏は、徳川家の譜代にあたる家柄で、三河から徳川家康に従って、関東入りしました。その後も、藩主は何度か交代しています。

もともと岩槻城が、太田道灌によって造られたのは、1457(長禄元)年のこと。江戸城北方の守りの城として築かれたのが、岩槻城でした。現在、城跡は、公園として整備されており、誰もが自由に散策することが出来ます。公園の敷地内には、岩槻城城門が保存されています。

岩槻城城門:門扉の両側に小部屋を付属させた長屋門形式となっている。

岩槻城のすぐ西側を「日光御成街道」(にっこうおなりみち)が通っています。「日光御成街道」は、日光社参のための特別な道として整備された街道で、本郷追分(東京都文京区)から、幸手宿(埼玉県幸手市)の手前で日光街道に合流するまでの12里30町(約48km)の長さがあります。

寛永年間(1634年~1647年)、三代将軍徳川家光は、日光東照宮の造営にあたって全国から優れた工匠を集めました。この日光御成街道は、日光東照宮の造営を終えた職人達が江戸へと向かう道路となっていました。その職人の一部が、岩槻にそのまま定住し、その技術を伝えたとされています。

岩槻で人形作りが行われるようになるには、日光東照宮の造営と日光御成街道の二つの要素があったからこそ、なのです。

日本初の人形をテーマとする公共博物館:さいたま市岩槻人形博物館

 

【アクセス】

さいたま市岩槻人形博物館

埼玉県さいたま市岩槻区本町6-1-1

岩槻駅東口バスのりばより、コミュニティバス慈恩寺観音行に乗車、「岩槻人形博物館前」下車。 所要時間約4分。

休館日

月曜日(休日の場合は開館)
年末年始(12月28日から1月4日まで)
※臨時休館日についてはトップページのお知らせをご覧ください。

観覧料

一般 300円(200円)高校生・大学生・65歳以上 150円(100円)
小中学生 100円(50円)※( )内は20名以上の団体料金
※障害者手帳をお持ちの方と、付き添いの方1名は半額
※展覧会により観覧料が異なる場合があります。

参考

『百年誌 岩槻の人形』編纂委員会『百年誌 岩槻の人形

 

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