源平合戦など興味なし!和歌に生きた藤原定家かく語りき【鎌倉殿の13人 外伝】:2ページ目
読み下すと「世上の乱逆追討、耳を満たしこれを注がざると雖(いえど)も、紅旗征戎(こうきせいじゅう)は吾が事にあらず……」。
世の中は東国征伐の噂があふれて、これ以上耳に注ぎ込むことができないほどと言いますから、よほど戦争の話題にうんざりしていたのでしょう。
ちなみに紅旗征戎とは、天子(天皇陛下)の命を受けた官軍であることを示す紅い旗(いわゆる「錦の御旗」)を掲げ、戎(ゑびす。外来は異民族≒野蛮人の意、ここでは野蛮な謀叛人を指す)を征伐すること。すなわち戦争を指します。
畏れ多くも一天万乗の聖上陛下に逆らい、謀叛を起こす朝敵を征伐する。これ以上ない大義名分を掲げた義挙であろうと、しょせんは荒事に過ぎません。
和歌という芸術に生きる自分には一切関係ないことだ……私的な日記とは言え、そう言い放ってしまう定家の姿からは、いっそすがすがしさも感じられます。
ちなみに陳勝(ちん しょう)と呉広(ご こう)は秦王朝末期の二世元年(紀元前209年)、よんどころない事情によって挙兵。人望がありながら非業の死を遂げた扶蘇(ふ そ。始皇帝の長男)と項燕(こう えん。滅ぼされた楚国の大将軍)を自称しました。
残念ながら陳勝と呉広の挙兵は失敗に終わりましたが、これに倣ってか以仁王も最勝王(さいしょうおう)と自称。最勝王とは国家鎮護の経典「金光明最勝王経(こんこうみょうさいしょうおうきょう)」に由来します。
各地に散らばっていた源氏の残党に令旨を発し、あろうことか独断で国司に任じるなど越権行為に及びました。またいかに皇族とは言え、今上陛下や法皇猊下を奉戴する平家に対して武力を興す行為は赦されざる暴挙であり、結局は陳勝・呉広と同じ末路をたどるのでした。
終わりに
とまぁそんな具合に、世が大きく変わろうとしている転換点にあっても、一向に興味がなかった定家。
後に飢饉が起きた際も「餓死した民たちの死臭が邸内にまで漂ってきて困る。何とかしてほしい(意訳)」などと書いており、野蛮な武士たちや下賤な庶民に対する無関心は徹底していたようです。
しかし、自身も社会の一員である以上、国家の有事に臨んでできること・とるべき態度があるのではないでしょうか(そういう意識が根付いている時代でもなかったでしょうが)。
遠い他国の戦争なんて関係ない。大昔ならそうだったかも知れませんが、通信・交通が発達して各国が密接な関係を保っている昨今、いつまでもそうは言っていられません。
来年は平和な漢字が選ばれるように、私たち一人ひとりが力を合わせ、行動していきたいものですね。
※参考文献:
- 藤原定家『明月記 第一』国書刊行会、国立国会図書館デジタルコレクション