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承久の乱で言及される「九郎判官」とは何者?角田太郎胤親のエピソード【鎌倉殿の13人】

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美六と美八の仕えた「九郎判官」とは?

さて、そんな角田太郎は承久の乱で奮戦し、みごとに武功を立てました。

……六月十四日宇治合戰討敵人々……角田太郎〔一人手討九郎判官郎等美六美八〕……

※『吾妻鏡』承久3年(1221年)6月18日条

【意訳】6月14日の宇治川合戦で敵を討ち取った人々(中略)。
角田太郎、手討ち1名。ほか九郎判官の郎党である美六(びろく)と美八(びはち)。

(あるいは九郎判官の郎党である美六美八という人物のみ1名の戦果と解釈できなくもありません)

手討ちとは自分の手で(もちろん刀を用いて)敵の首級を挙げたこと。ほか2名については矢で射殺したか、あるいは首級を挙げずに打ち捨てたのでしょう。

美六・美八とは恐らく美男の六郎、同じく八郎の意味(二つ名)と考えられます。よほどハンサムだったのでしょうね。

ところで、この九郎判官(くろうほうがん)とは誰でしょうか。そう聞いてパッと連想するのは源義経(演:菅田将暉)。主君が滅ぼされた後、その残党である兄弟が鎌倉幕府に復讐しようと官軍に与した……のかも知れません。

しかし、義経が滅んだ文治5年(1189年)から30年以上が経過しており、当時の生き残りであればかなり老齢のはず。

ここで言う九郎判官とは三浦胤義と考えられます。彼も通称は九郎(平九郎)、検非違使(判官)に任じられていたため義経と同じく九郎判官です。

承久の乱における中心人物であり、義経より当事者性が高いことから、より説得力が感じられます。

義経は源(みなもとの)九郎判官、胤義は平(たいらの)九郎判官。こういう共通点(九郎判官)と違い(源・平)が面白いですね。

終わりに

かくして宇治川の武功が記録された角田太郎。ちなみに『承久記』には共に出陣した角田弥平次(やへいじ)という者が記されており、こちらは特に武功を立てたとも討死したとも言及がありません。無事だといいのですが……。

承久の乱に登場した九郎判官。その郎党を討ち取った角田太郎胤親のエピソードを紹介しました。

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では名前も出ないでしょうが、承久の乱における御家人一人々々の活躍を少しでも見届けていきたいものです。

※参考文献:

  • 太田亮『姓氏家系大辞典 第四巻 タケ-ニワカ』国民社、1944年3月
  • 五味文彦ら編『現代語訳 吾妻鏡8 承久の乱』吉川弘文館、2010年4月
  • 野口実「上総千葉氏の族的位置と丹後守護補任の背景について」
 

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