正室「寧々」と側室「茶々」の仲は悪かった?豊臣秀吉の正室と側室の関係を考察:2ページ目
茶々の数奇な運命
次に茶々(淀君)です。彼女の母親はお市の方(浅井長政と織田信長の妹)で、父親と祖父は姉川の戦いで自害しており、兄も切腹に追い込まれるという悲惨な境遇でした。
信長の死後、母親であるお市の方は柴田勝家と再婚しますが、勝家は秀吉と敵対したため、最終的にお市の方ともども自害に追い込まれます。
つまり、茶々が側室となった秀吉は、本来なら親のかたきでした。しかし、当時はこうしたことは珍しくありませんでした。
やがて、秀吉と茶々の間に鶴松が生まれます。鶴松は、秀吉の唯一の実子でした。
それまで秀吉は子宝に全く恵まれなかったため、茶々の懐妊が判明すると、お腹の子の父親は別人なのではないかという好奇の目線が注がれました。
そこで、落ち着いた環境で子供を産めるように造られたのが淀城でした。これがきっかけで、茶々は淀君と呼ばれるようになります。
しかし、鶴松は3歳で病死し、後に秀頼が誕生しています。こうして見ていくと、正室は寧々なのに後継ぎは側室の茶々が生むという、ややこしい状況だったことが分かります。