正室「寧々」と側室「茶々」の仲は悪かった?豊臣秀吉の正室と側室の関係を考察:3ページ目
2人の関係は?
このようにざっと見ただけでも、寧々と茶々はさぞ険悪な関係だったろうと想像してしまうところです。秀吉の心境を思うと、男ならゾッとするのではないでしょうか。
しかし、その後いわゆる秀次事件などが起きて豊臣家が滅んでいくまでの経緯を見ていくと、実は豊臣家の体制に綻びが見え始めたのは秀吉の死後、特に寧々と茶々の居城が分離して以降の出来事だったことが分かります。
このことから、本当は寧々と茶々は豊臣家の要であり、2人が同じ城内にいて連携することでしっかりした協力体制が取れていたのではないか、と最近では言われています。
今までは、2人の関係は険悪なものだったとする見方が主流でしたが、むしろ現在の通説はそれを否定しています。
特に寧々は北政所としての役割も果たしていることから、政治家・統治者としての資質もあったことが伺えます。天下統一を果たした豊臣家の政治体制は、こうした観点からも見ていく必要がありそうです。
参考資料