一幡と善哉(公暁)だけじゃない!源頼家「第3の女」が産んだ栄実と禅暁【鎌倉殿の13人】:2ページ目
禅暁(ぜんぎょう)
禅暁は生年不詳。ただし同母兄とされる栄実が建仁元年(1201年)生まれで父の頼家が元久元年(1204年)に暗殺されているため、建仁2年(1202年)~元久元年(1204年)の間に生まれたと推定されます。
父の暗殺に伴い、出家して京都・仁和寺へ。母は三浦胤義(演:岸田タツヤ)と再婚しました。
物心つかない内から両親と引き離され、孤独な少年時代を過ごした禅暁。修行三昧の日々を送っていた建保7年(1219年)1月27日、叔父の源実朝が異母兄の公暁に暗殺されると、共謀の疑いをかけられてしまいます。
「……お迎えに上がりました」
同年閏2月5日、上洛した二階堂行光(にかいどう ゆきみつ。二階堂行政の子)に伴われた禅暁は、どこへともなく「下向」していきました。
……二月廿六日前信濃守行光入洛閏二月五日召具禅暁闍梨 故頼家卿息 下向……
※『光台院御室伝』建保7年(1219年)2月26日~閏2月5日【意訳】2月26日に上洛してきた二階堂行光(前信濃守)は、閏2月5日に禅暁阿闍梨(頼家の遺児。闍梨は阿闍梨の略=同義語)を連れて下向した。
この時、行光が禅暁をどこへ連れ去ったのかは分かりませんが、翌承久2年(1220年)4月14日、禅暁は東山の辺りで殺されたということです。
十四日…(中略)…今夜禅暁阿闍梨 故頼家卿息 於東山邉誅之
※『仁和寺御日次記』承久2年(1220年)4月14日条
仁和寺を去ってから1年以上。殺すならさっさと殺せばいいものを、しばらく期間があいたのは、もしかしたら母&三浦胤義による助命運動があったのかも知れません。
しかし抵抗も空しく禅暁を殺され、悲しみにくれる妻のため、胤義は鎌倉≒執権北条氏への復讐を誓うのでした。
終わりに
禅暁の死によって根絶やしにされてしまった頼家の男児。このことはまた、頼朝と政子の血を引く男児が死に絶えたことも意味します。
※頼朝の男児としては、大進局(だいしんのつぼね)との間にもうけた隠し子・貞暁(じょうぎょう/ていぎょう)がまだ残っており、寛喜3年(1231年。享年46歳)まで生き延びました。
暗殺された実朝に男児がおらず、また北条氏が宮将軍(皇族からの派遣)を当てにしていたことから根絶やしにされた頼朝の男児たち。
はっきりと謀叛を起こした(担ぎ上げられた)栄実はともかく、禅暁を第4代の鎌倉殿としていれば、もう少し穏やかな展開を迎えられたかも知れません。
果たしてNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に栄実・禅暁は出てくるのでしょうか。キャスティングや設定描写なども、楽しみにしています。
※参考文献:
- 『光台院御室伝』新日本古典籍総合データベース
- 『仁和寺御日次記』新日本古典籍総合データベース
- 藤原公定 撰『尊卑分脈 九』吉川弘文館、1904年6月
- 五味文彦ら編『現代語訳 吾妻鏡 8承久の乱』吉川弘文館、2010年4月