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【現地へ行ってみた】平安時代、武将・鎌倉景正によって開発された神奈川県藤沢市大庭周辺を散策

【現地へ行ってみた】平安時代、武将・鎌倉景正によって開発された神奈川県藤沢市大庭周辺を散策:2ページ目

景義はその後、源頼朝の挙兵を受けて石橋山の戦いにも参戦します。一方、弟の景親はというと、1159(平治元)に源氏方の武将として平家に捕らえられた際、平清盛に命を助けられたことを恩義に感じ平家方につきました。

その結果、兄・景義と弟・景親は敵味方同士で兄弟で争うことになります。この戦いで景親は平家方の総大将として奮戦し、源氏方を破りました。

ところが、再挙した頼朝が富士川で平家軍を破ると,景親は源氏方によって捕えられます。この際、二人が兄弟であることを把握していた頼朝は景義に「助命嘆願をするか」と打診しますが、景義は、これを断ります。

その結果、景親は、頼朝に命ぜられた兄の景義によって固瀬川辺で斬首されてしまうのでした。

現地を歩いてみると、さすがに伊勢神宮に寄進していただけのことはあるのでしょうか、「皇大神宮」がありました。

大庭城から10分ぐらい歩いた場所にお寺がありました。お寺の名前は宗賢院といい、北条早雲の命により、虚堂玄白によって開山された曹洞宗の寺院です。山号は、蟠龍山。

1649(慶安2)年、徳川三代将軍家光から十石の朱印地を賜り、二世から四世までの間に末寺17ヶ寺が創建されたといいます。本堂前には、「竜骨堂」と呼ばれる建物があり、堂内に祀られている竜骨には、雨乞いの霊験があるといわれています。

寺宝として、大庭景親の陣釜とされる茶釜や、面山老師自筆の『相州養命寺記』一巻、「相州大庭荘」の扁額がなどが伝えられており、この寺院の裏手に大庭景親の居館があったと推定されています。

ちなみに現在、茅ケ崎市にある神明大明神には、大場景義が居城にした懐嶋城址と景義の像が残っています。この辺りの歴史についても、いずれ深く掘り下げたいと思います。

参考

鎌倉市史編纂委員会『鎌倉市史』総説編(1959 鎌倉市)

 

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