忠義一筋!人質時代から天下人まで、ずっと徳川家康を支え続けた天野康景・後編【どうする家康】:3ページ目
本多父子に陥れられ、改易処分の不遇な晩年
このまま天寿をまっとうして欲しかったところですが、康景の晩年に大きな不幸が襲います。
慶長12年(1607年)3月9日、康景の下卒が領民を殺したかどで本多正信(ほんだ まさのぶ)・本多正純(まさずみ)父子から責められ、改易されてしまうのです。
「そなたの預かる所領は天領であり、その領民はいやしくも公民である。たとえ彼らが盗みを働いたからと言ってそれを殺してしまうのは、御公儀の権威を損ねるものである(意訳)」
実は以前から康景が蓄えておいた材木がしばしば盗まれてしまうため、家臣に命じて見張らせていました。
そこへまた盗みを働いたので殺したところ、本多父子によって言いがかりをつけられてしまったという次第。
「「さぁ、ただちに下手人どもを引き渡されよ!」」
困ったことになりました。ここで家臣らを引き渡せば、理不尽な罪を認めてしまうことになります。
もしかしたら、元から康景を陥れる目的で領民を買収でもしていたのかも知れません(後に老中の大久保忠隣も本多父子によって失脚に追い込まれました)。
とは言え、ここで意地を通せば永年の忠義が水泡に帰してしまう。それだけは、絶対に避けねばなりません。
(おのれ本多め……かつて三河一向一揆では大御所様に楯突いた帰り新参≒一度裏切って再び仕官した者の分際で、譜代の忠臣を貶めようとは……)
葛藤の末、康景は「保身のために忠義や道理を曲げることは、我が生き方ではない!(直きをまげて曲れるに随はん事、素懐にあらず。新井白石『新編藩翰譜』より)」として城も所領も放棄して出奔してしまったのです。
相模国小田原にある西念寺に蟄居した康景は、そのまま現地で没したのでした。時に慶長18年(1613年)2月24日、享年77歳。