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江戸時代の京都を守ったお城は二条城ではなく、2つの浄土宗寺院だったー2023年大河『どうする家康』こぼれ話【前編】

江戸時代の京都を守ったお城は二条城ではなく、2つの浄土宗寺院だったー2023年大河『どうする家康』こぼれ話【前編】:2ページ目

幕末になり復旧された二条城

しかし、1862(文久2)年に14代将軍家茂の上洛が決まると、二条城は急ピッチで復旧作業を施され、二の丸御殿の修復、本丸仮御殿の建設が完了しました。

徳川将軍家の京都政庁として復旧した二条城。だが、政治の表舞台に立つのはあまりにも時間が短すぎました。1867(慶應)年10月、第15代将軍慶喜は、ここで大政奉還を行い、約260年間続いた江戸幕府は終焉を迎えます。

大政奉還の翌年、徳川氏排除を進める新政府と旧幕府の間で、鳥羽伏見の戦いが起こりました。

二条城には、水戸藩や新選組など旧幕臣が続々と詰めかけます。しかし、旧幕府軍は戦いの本営を戦闘用に要塞化した大阪城に定めたため、彼らは留守部隊を残し、伏見方面へ移動。二条城を舞台とした戦闘は行われず、維新後は二条離宮となったのです。

以上のように、二条城は、あくまでも政庁としての城郭でした。ですから、鳥羽伏見の戦いに巻き込まれることなく、今も元離宮二条城として、京都の人気観光地となっているのです。

【前編】はここまで。【後編】では、徳川家が京都防衛のために造営した「知恩院」と「金戒光明寺」についてお話ししましょう。

後編記事はこちら

◎参考文献:京都ぶらり歴史探訪ガイド 今昔ウォーキング(メイツユニバーサルコンテンツ刊/京あゆみ研究会著/執筆・撮影・編集:高野晃彰)

 

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