戦地に駆り出された少年たち!白虎隊が自刃し悲劇の最期を迎えるまで【後編】
悲劇の銃撃戦
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戦地に駆り出された少年たち!白虎隊が自刃し悲劇の最期を迎えるまで【前編】
白虎隊、自刃す戊辰戦争の折、飯森山で自刃して果てた、少年たちで構成された「白虎隊(びゃっこたい)」。彼らはどういう経緯で結成され、なぜ自刃したのか? その経緯をたどります。文久2(…
さて、出陣命令を受けた白虎隊はさっそく戸ノ口原に向かいますが、出陣当日は日没を迎えたことで、戦闘は一時中断。
その夜は、進軍してくる新政府軍に備えて陣地を築くことになり、白虎隊も徹夜の作業に参加しました。
そして23日の朝5時ごろ、白虎隊の一部が、接近してきた新政府軍に一斉射撃を開始します。
最初こそ慌てた様子を見せた新政府軍でしたが、次第に押し返されて、会津軍は劣勢となります。やはり、新政府軍の方が、銃の性能は圧倒的に勝っていました。
新政府軍の使う銃は最新式で、飛距離が800~1,200m。これに対して会津軍の銃は城に残っていた旧式のもので飛距離は200~300m程度でした。
それでも少年たちは、銃身が熱くなり素手で持てなくなるまで発砲し続けます。その結果、白虎隊からは3名の死者が出て、ついに持ちこたえきれずに撤退しました。少年たちは、街道を引き返して飯盛山の東側へ逃れます。
少年たちの絶望
飯森山の山裾には、猪苗代湖から若松城下へ水を引くための用水路である戸ノ口堰洞門があり、水路は山の西側に通じていました。
隊士たちは洞門を潜り抜けて冷たい水の中を進み、若松城下が一望できる高台に到着します。
しかし、そこで目の当たりにしたのは、炎に包まれた若松城と城下町の光景でした。
隊士の野村駒四郎は城に入って敵と戦うことを提案しますが、篠田儀三郎は「城に入るのは不可能ではないが、誤って敵に捕まり捕虜となったら君主や先祖に申し訳ない。潔くここで自刃し武士の本分を明らかにすべき」と提案します。
最終的にはこの意見に全員が賛成し、午前11時ごろ、少年たちは集団自決を決断。このとき、20名のうち19名が死亡しましたが1人だけが奇跡的に生き延びます。
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