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絵師でありながら、槍をふるって斎藤利三の遺骸を奪還した海北友松(かいほうゆうしょう)とは【その1】

絵師でありながら、槍をふるって斎藤利三の遺骸を奪還した海北友松(かいほうゆうしょう)とは【その1】

浅井家に殉じた海北家の再興を目指す

海北友松は、1533(天文2)年、北近江の戦国大名浅井家の重臣海北綱親の5男として生まれた。しかし、2歳の時に父が討ち死。それを契機に、京都東福寺で禅僧としての修行に入った。

なぜ友松が幼くして出家したかは不明だ。だが当時、群雄割拠の地・近江の一大名にすぎなかった浅井家においては、いつ綱親と同様な死を迎えることになっても不思議ではない。近江から離れることで、いざという時の血脈を残すためということもあったのだろう。

いずれにせよ、この期間に画家としての友松の基礎が完成したことは間違いない。諸説あるものの、この間に狩野元信・永徳らに画を学んだといわれている。

また、友松自身に海北家に変事が起きた際に自分がその跡を継ぐという意識があったのか、あるいは武門の血がそうさせたのかは定かではないが、弓・太刀・槍の修行も怠らなかったという。

つまり、東福寺時代の友松は僧籍の画人と武士という二面性を有していたことになる。

そして、1573(天正元)年、浅井氏は織田信長により滅亡した。この時友松の兄たちもみな討ち死にし、海北家は断絶した。この機を境に、友松は海北家の再興を目指すこととなる。

友松が還俗したのか、僧籍のままでいたのかは判明していない。しかし、この時期、友松の画の師とされる狩野永徳は絶頂の時にあった。おそらくは友松も狩野派の絵師の一人として永徳とともに仕事をしていたのであろう。

それは、1590(天正18)年、永徳が48歳で急逝するまで続いたと考えるのが自然だ。

【その1】はここまで。【その2】では、友松が海北家の再興を目指す中で巡り合った斎藤利三を始めとする人々についてお話ししましょう。

【その2】はこちらから

<参考文献>
葉室麟著 『墨龍賦』(PHP研究所/PHP文芸文庫)

 

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