手洗いをしっかりしよう!Japaaan

本能寺の変に「黒幕」はいたのか?たぶん明智光秀の単独犯行だった「四国政策転換説」を紹介【前編】

本能寺の変に「黒幕」はいたのか?たぶん明智光秀の単独犯行だった「四国政策転換説」を紹介【前編】

あり得ないほどの好条件がたまたま出現

信長暗殺が成功するであろう条件を考えると(1)織田家の有力武将がみんな畿内(信長の近辺)から出払っており、かつ(2)光秀だけが畿内で大軍を率いていることが必要になります。

じゃあ当時はどうだったのでしょうか。中国地方の毛利氏と戦っている羽柴秀吉、北陸地方で上杉氏と戦っている柴田勝家(しばた かついえ)はともかく。他の武将たちが畿内から出払ったのはつい最近のこと。

滝川一益(たきがわ かずます)が北関東方面へ向かったのは天正10年(1582年)3月、織田信孝(のぶたか。信長の三男)・丹羽長秀(にわ ながひで)が四国に出陣したのは同年5月7日。

そして光秀が秀吉の援軍として中国地方への派遣を命じられたのが同年5月17日。つまりそれ以前には軍勢を集めることが出来ません(理由なくそんなことをすれば、それこそ謀叛を疑われるため)。

さらに5月17日から兵を集めても、信長は既に家督を嫡男の織田信忠(のぶただ)に譲っており、信長だけ討ったところで信忠によって鎮圧されてしまうでしょう。

となると謀叛の成功には先ほどの条件に「信長と信忠を同時に討てること」を追加しなくてはならないのです。

畿内に無防備な信長・信忠父子、そして大軍を擁する光秀だけがいる

そんな都合の良すぎる状況を前提とした暗殺計画を立てたところで、何の実現性もない……と思っていたところ、それがたまたま起こった(※)からこそ、光秀は間髪入れず「本能寺の変」を決行したものと考えられます。

(※)徳川家康を接待するため、堺へ向かおうとしていた信忠が、父・信長を迎えるため京都に留まっていたのでした。

【後編へ続く】

※参考文献:

  • 呉座勇一『陰謀の日本中世史』角川新書、2018年3月
 

RELATED 関連する記事